【シキケン】夏休みの夕暮れ
気づけば陽も落ちかけている。
職員室の中にいる教員たちはおもむろに帰り支度を始めていた。
姿のない教員は、部活動に出ているか、熱心に補習をしているか、既に帰宅しているかだろう。
「お疲れ様ー」
そんな声が飛び交う中、真ん中あたりのデスクで甘草詩濃はパソコンに向かって唸っていた。
志騎高校3年C組の担任でもある彼女は、3学年担当教員の中で最も若い。教員になっての日も浅い中、初めて持ったクラスのために日々奮闘している。
明日の授業の資料の仕上げをしようとデータをみたところ、自分の作った資料のミスをみつけ、その手直しをしているうちに「もっとこうしたらいいんじゃないか」とどんどん直したいところが増えてきて収拾がつかなくなった。
凝り性なのである。
オタク気質、というのに加え、大好きな日本史の教師になったものだから、どれだけ凝っても「業務」で済ませられてしまう。好きなものを仕事にするのもなかなか問題だ。
好きなことを仕事にできるのはとてもいいことではあると思うが、限度をわかっていないと歯止めが利かなくなる。
自覚こそしているのだが、どうにも突き詰めたくなってしまう。
カタカタとキーボードを打つ音が響く。
「甘草先生、あまり無理しないように」
向かいの席の、学年主任の新庄先生に声をかけられた。帰り支度を済ませて、今日は少し早く帰宅するらしい。
「はい!ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて礼を述べると、新庄も会釈をして背中を向けた。
生徒たちからは「傭兵」とあだ名を付けられて畏れられている彼だが、礼儀正しくきちんとした紳士だと、甘草は思う。
徐々に職員室からも人がいなくなっていき、とうとう残るは数人になってしまった。
警備が回ってくるのが22時。それまでには絶対に仕上げないといけない。
薄暗くなった外を見てそう決意すると、ふう、と気合を入れてパソコンに向き合った。
生徒たちにわかりやすく、いい点数とれるような内容にしたい。そんなことを思えば、自然とキーボードを叩く手は軽くなる。
甘草の担任のC組は、シキコーの中でも問題児と言われる部類の生徒が揃っている。
現に、1学期には謹慎になった生徒も居り、教員たちも手を焼くようなメンツぞろいだ。
半ば押し付けられる形で担任になったが、甘草は彼らがそこまで悪い生徒だとは思わない。
むしろ、彼らが反発し嫌うのは、彼らを悪だと決めつける大人に責任があるのではないかとも思う。
彼らとの付き合いは、副担任としての期間を含めれば3年目になる。その期間で培ってきた彼らとの絆を信じたいと思うのは、彼女がまだ腐りきっていない教師だからなのだろう。
俗にいう「ヤンキー」の子たちに対しての偏見はない。
そういったフィルターをかけてみてしまう事が、彼らを非行に走らせるのである。
新任の頃は良く泣かされたり、いじめられたりしたものだが、今の代の子たちにはそういったことはされない。少しだけ彼らのおかげで自分に自信がもてたのも事実だ。
そんな彼らが、少しでも学校が楽しいと思ってくれればいい。そう思っている。
カタカタという軽快なタッチ音と重なり隣からマウスのクリックする音が聞こえてきた。
集中力の途切れた彼女がふと音の方向を見ると、同じ社会科教諭の真田がパソコンに向かっていた。
「真田先生も残業ですか?」
「いえ。俺は違います。」
即答された。変な男だ。彼はちらりと一瞥しただけですぐにパソコンに向き直ってしまった。
「そうなんですね~」
特にそれ以上会話をするつもりもなく、適当な相槌を打って甘草もパソコンへ目を戻した。
「最近毎日残業ですね。」
会話を終わらせるつもりだったのに、真田が口を開いた。
「要領悪いんですよ~」
自虐のような真実を半笑いで答える。キーボードを叩き始めた。
「…人には人のペースがあるから、いいんじゃないですか」
「優しいですね~」
「当たり前のことを言っただけです」
彼は相変わらずカチカチとマウスをクリックしている。
「甘草先生、真田先生、先帰りますー!」
家庭科教員の松永がはつらつとそう言って、出て行った。
もう職員室には甘草と真田だけになった。
エアコンの音と、キーボードを叩く音と、マウスのクリック音しかしない。
部活動も終了時間になったので外の喧騒もなくなり、いよいよ職員室は静かになった。
ちらりと横を見ると、何を考えているかわからない横顔がパソコン画面に照らされて少しだけ青白くなっている。
残業じゃないならなんだろう…
疑問に思ってパソコンの画面を盗み見ると、フリーゲームのマインスイーパの画面だった。
…なんでマインスイーパやってるんだろう…早く家帰ればいいのに…
この同僚のことをますます奇妙に思えば肩をすくめて自分の作業に戻った。
「…帰りは1人ですか?」
また静寂の中、唐突に真田が話しかける。
「はい、そうですけど…あ、いや。阿戸先生が保健室で待ってるかもしれないです」
夜遅くなるたびに心配してくれる先輩の言葉と顔を思い出しながら答える。
遅くなるんだったら声かけやがれ、って言われたんだった。
その様子を思い出して、お父さんみたいだなあと笑みが漏れた。
「そうなんですね。危ないから1人で帰らない方がいいですよ」
相変わらず淡々とした声で真田はそう告げると、マウスから手を離した。
「じゃあ俺はもう帰りますんで。また明日」
既にまとめてあったらしいカバンを持つとすぐに立ち上がった。
グレーの背広の後ろ姿を見て、やっぱり変な人だなあ、と甘草は思った。
机上のスマートフォンを手繰り寄せ、遅くなるなら連絡した方がいいかな、と一考したのち、阿戸へメッセージを送った。
『今日残業します!』
だからなんだ、と言われたら報告しろと前に言っていたので!と返すだろう。
阿戸とのなんとも言えないこの関係性が、甘草は不思議だ。
兄が居たらこんな感じなのかな。
そんなことを思いながら、再びパソコンへ向かった。
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