【シキケン】Smell Of The Sun

テスト期間は時間を持て余す。


通常授業の日であれば夕方くらいまで授業があるのでそこまで退屈しないのだがテスト期間は午前で放課されてしまう。

気づけばテスト2日目も終わり、クラスメイト達はテストの出来を話しながら帰路へ着こうとしていた。


雨上がりの匂いが開けた窓から緩く流れ込んできた。朝からずいぶんと強く降った雨が今では上がっている。雨に混じって夏の匂いがした。


教室から出ていく同級生の背中を見ながら巽はぼんやりしていた。

巽の席は窓際の一番後ろだ。理由は、背が高いから。

校庭と玄関を一望できるこの席は案外悪くない。桜のころは青空の中に舞うピンク色を授業中ずっと眺めることが出来るし、今日みたいな雨の日は雨音が一番近い。


同級生たちは足早に出ていくが、何の予定もない巽はさっさと教室を出る必要もない。

いつもなら「迎えに来てdarling」なんて軽口をたたく友人にはテスト期間中は家に帰るよ、と宣言されてしまった。

「ちぇー」なんて冗談めかして拗ねてみたが、いざこういう一人の時間になると早く一緒に酒を飲みたくなるものだ。



はるか下の玄関では生徒たちが一斉に校門の方へと向かっている。


―――みんなちゃんと勉強するんだろうなあ。


頬杖つきながらそんなことを思っていると、見慣れたピンク色の髪の毛が楽しそうに出ていくのが見えた。


―――桜の花びらみたいだな


季節外れに咲いた桜をみて思わず唇に弧を描く。少しばかり心の隙間が埋まったような気がする。あたりと見まわすと、もう誰も教室には居なかった。

思わず欠伸をすると教室のリノリウムと雨が混じった不思議な匂いが鼻腔をくすぐった。


嗅覚は、五感の中で最も記憶に残りやすいという。

確かに、マクドナルドのジャンキーな匂いを嗅げばすぐにNYの下町を思い出すし、とある煙草の匂いを嗅げば兄貴の顔をすぐ思い出せる。


―――じゃあ来年もこの匂いを嗅いだら、今日のことを思い出すのかな。


しかし来年はもう同じこの匂いを感じることは出来ない。卒業してしまったら、学校特有の匂いが体に流れ込んでくることもないのだ。

そんなことを思っていたら、なおさらこの光景を忘れないようにしなくてはいけないような気がした。


雨上がりの日。理科と英語のテスト。帰っていく制服。難しくて無理だったと聞こえてくる声。窓から見下ろしたピンク色の髪。彼の「古典は文学だよ」という彼の言葉。



「早くバイク乗りて~」


小さく呟いて立ち上がる。高校の机といすは小さくて腰が痛くなるのだ。

机の上に投げ出したままだったスマートフォンをポケットに入れて、教室を後にする。

玄関にたどり着くまでに通った教室の中にはポツポツと生徒が残っていたが、彼らは熱心に問題集を問いているようだった。

自分も何かしなくては、と思うのだがどうにもコツコツ勉強するのには向かない。

勉学の面では何も詰まっていなかった脳みそは、高校に入ってからびっくりするくらいものを吸収した。兄には「何でも出来なければいけない」と言われて、前まではその兄に認められるべくがむしゃらになっていたが今は違った。純粋に知らないことを知るのは楽しい。


今回は年下の可愛い女の子と約束したのもあってか、いつもよりも良い成績を収めたい。

しかし一人で机に向かう気にはならなかった。



「海行かん?」

そんな軽いノリで決まった海行きの予定で郷愁的な感情はすぐにどこかへ消えた。SNSでのやりとりであっさり決まった息抜きと称するそれは、テスト期間という何処か背徳的な響きとタブーを孕んでいる気がする。


海の良く似合う武蔵は雨上がりだというのに太陽のような笑顔を見せて手を振った。野郎2人でバイクに乗って、海を見に行く。

笑っちゃうくらい面白い絵面な気がするが、それでもいい。


むせかえる様な曇天の中バイクを走らせ、風をきる。通り過ぎていく景色が街中から切り開かれてくると、もう海が近い。

風の匂いが、潮を含み始めた。

決して爽やかとはいいがたい天気ではあるが、それでも海の広さは変わらない。


何処かの詩人が、「海と人間の涙は潮が含まれている。だから我々は海を愛す」と言っていた。その言葉を思い出すたび、海に行きたくなる。


適当なところにバイクを停め、ヘルメットを脱ぐと武蔵は嬉しそうに海へ走って行った。巽も鍵をポケットにしまってその後を追う。

太陽を浴びてキラキラと輝くような海ではない。曇天の空をそのまま映したような灰色の海だった。荒れているわけではないが、どこか寂しい色をしていた。歩くたびに砂浜の砂がずぷりと靴を飲み込んでいく。


「巽ー!見てや、めっちゃきれいな貝殻!」


子供のようにはしゃぐ彼につられて笑い、彼の手の中にある貝殻を見た。薄い桜色の貝殻だ。灰色ばかりの世界の中で、鮮やかに見える。


「綺麗じゃん。妹ちゃんに持って帰ってあげたら喜びそうじゃない?」

「あー!せやな!お土産にしたろ」


そういうや否や、武蔵は靴と靴下を脱いで砂浜に放り投げた。本格的に探し出すつもりらしい。妹思いの友人のために一肌脱ぐか、と自分も砂浜に靴を放った。

制服の裾をまくって、素足で踏む砂は思ったよりも粒子が細かくて心地が良い。雨に濡れているせいもあってか、少しだけ冷たい。


海の近くにいるときと、海の中にいるときでも匂いは変わると思う。上手く表現は出来ないが、海と砂の匂いから、海と海の匂いに変わる。今日はそれに、雨の匂いもする。


「この真っ白い奴なんてどう?」


手で掬い上げた砂に埋もれていた貝殻を海水で洗うと、白い絵の具で塗りつぶしたような白い貝殻が現れた。まぶしくなるような白は、なかなか良い。

武蔵に差し出すと「こりゃええわ」と言って笑った。


―――太陽みたいだ。


屈託のない笑顔を見るたび、いつも良く晴れた夏の日を思い出す。周りもつられて笑顔になってしまうような、そんな魅力が彼にはある。

日本に来て初めての友人が武蔵だった。

初めて会った時も今と変わらない笑顔を向けられて、巽は少しだけたじろいだことを思い出した。

何かが変わってはいるのだろうけれど、一緒にいる感覚は変わらない。武蔵は海でも太陽でもあるのかもしれない。


「結構綺麗なのあるな~」


当の本人はそんなこと気にしていないのかもしれない。でもそれでいい。

雨上がりと潮の匂いがしたら、きっと掌に乗せた今日の収穫を眺めて満足そうにしている顔を思い出すだろう。

そんなことを思っていると、僅かに雲間から光が射した。


「あ、晴れてきたで!」


太陽みたいな彼が太陽を呼んだんだなあ、と思った。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。