前日譚
今でも鮮明に思い出す。
思い出したくもない記憶だが、嫌でも脳裏にこびりついて離れない。狭くて汚い部屋の中だったけれど、俺は母さんに沢山の愛を貰って、笑いの絶えない生活を送っていた。
ジプシーの血を引く母は情熱と愛に満ち溢れ、金銭的な貧困を感じさせないほど豊かに笑う人だった。古い記憶の中でしか母は笑わない。
幸せな日常が急に終わりを告げたからだ。
よく世話になっていた教会の神父さんが俺の家に入ってきた。
そして、「いいかウィル。外に出てはいけないよ」と言った。
母さんは外に買い物に出かけていたのに。
「どうして」
「いいかいウィル、落ち着いてくれ、君のお母さんはね」
家の外から聞こえる大きな声で神父さんの声は掻き消された。怒りに満ちた市民の声だった。
何の関係もない、愛に溢れて生きていた、ひたむきな母さんは、自分たちの正義を掲げる彼らの抗争に巻き込まれて死んだ。
市民によって掲げられた松明の炎が窓から見えた。
それからの記憶は抜け落ちて、次の記憶はアラスカの広大な大地の中、熊がこちらを見ているものに切り替わる。
母さんはきっとあの松明の炎の中に呑まれたんだと、幼心で納得した。代わりに、母さんの弟と俺は暮らすようになった。
「どうして父さんは来ないの?」
「ウィルのパパはお仕事が忙しいからね。ほら、あそこにこぐまがいるだろう、見てごらん」
そう言って双眼鏡を覗いた時の映像を鮮明に覚えている。
叔父さんは旅人だった。
ふらふらと世界中を旅して、未開の地に足を踏み込んで、この世の全てを知りたがっている人だった。母さんと暮らしていた時も、叔父さんは度々家に来て冒険の話をしてくれる。俺は叔父さんも叔父さんがしてくれる冒険の話も大好きだった。
叔父さんに引き取られてから、俺は酷く寂しくなったり、毎晩泣いたりすることもなかった。それはきっと彼が俺の気を紛らわせようと色々なところに連れて行ってくれたからだと思う。
彼のおかげで俺は、世界の様々なことを知った。
氷だけで出来た土地があること、大陸にいる先住民族のこと、人は呆気なく殺し合うこと。
全く知らない小さな島国に行った事もあった。紛争地帯を通過して、目の前で人が撃たれていくのも見た。
世界が、恐ろしくて広いことを俺は知った。
叔父さんと次どこに行こうかと話しながら星を見るのが好きだった。本で読んだ知識をいっちょ前に披露したくて知ったかぶると、叔父さんはちゃんと「良く知っているな、えらいぞ」と褒めてくれた。幼い頃の俺にはそれが妙にくすぐったかったが、たまらなく嬉しくもあった。
しかしそんな日々も長くは続かない。ヨーロッパの北を旅している時だった。
叔父さんが暴走した馬車に轢かれた。
皮肉にも俺が食べたがったりんごを買って来てくれた帰りのときだった。そのせいで俺は今もりんごが食べられない。
旅先のホテルで本を読んでいた俺のところに焦って入ってきたホテルマンの顔を今でも良く覚えている。「お父様が亡くなりました」と。
本当の父のことなのか、建前上親子として旅していた叔父のことなのか、一瞬では判断できなかった。
でも、ホテルマンが差し出してきた肩掛けの鞄を見て、叔父さんのことだと理解した。
すぐさま部屋を飛び出して行こうとしたがホテルマンに止められ、結局大人たちがあれよあれよと言う間に全て片付けてしまった。
一目叔父さんに会いたいと言ったら警官に「君は彼をお父さんだとわからないよ」と言われた。言葉の意味も分からず、聞き返す暇もなく俺はイギリスに戻された。
悲しくて仕方なかったけれど、涙は出てこなかった。叔父さんがひょっこり「何処か行くか」と帰ってくるような気がしてならなかったからだ。
次に良く覚えているのは、痛む拳。床に尻餅ついた若い男。周りを取り囲んで恐る恐るこちらを見ている子供達。
嗚呼俺は、孤児院に入れられたんだった。
孤児院の中は最悪だった。表向きは慈善活動をしてるようなふりして、中では子供に満足に食事を与えておらず、しまいには暴力まで振るっていた。
そこで仲良くなった子に職員が手をあげて、それが許せなかった俺は...職員を殴った。
俺が初めて誰かを殴ったのはその時だ。指の骨が痛かった。職員は鼻血を吹いていた。
覚えているのはそれだけ。孤児院の中でどんな風に生活していたのかも、どんな子がいたのかも思い出せない。酷い事に、助けた仲良かった子の顔も思い出せない。それだけ劣悪な環境だったのかもしれない。1番忘れたい思い出だ。
自分達に歯向かうものは切り捨てるのが大人だ。俺は身寄りもない状態で孤児院から追い出された。叔父さんから受け継いだ本や鞄は返してもらえたが、金品は取り上げられてしまった。
「大人ってやつは本当にクソだな!」
閉じられていく孤児院の門に向かってそんな捨て台詞を吐いた気がする。
手提げトランクと1着の衣類だけ持ってロンドンの町を徘徊した。
絡まれれば喧嘩して、路上で寝て、パンをくすねて、ドブ川の水をろ過して飲んで。
まさかこんなところで叔父さんと旅していた頃の知識が役に立つとは思わなかったが、それのおかげできっと俺は生き延びられた。
悲しさと悔しさがなかったわけではない。だからその分、生きてやらなくては気が済まなかった。
俺を追い出した腐った孤児院や、俺と母を見捨てた父を見返してやりたかった。
毎日喧嘩して、ずっと勝ってばかりだったが勿論負ける日もある。
そしてそんな、負けた日のことだった。
ひとりの腰の曲がった老人が雨の中歩いていた。ご丁寧に傘までさして、立派な革靴を履いているのが遠目からでもわかった。喧嘩に負けてむしゃくしゃしていたせいもあってか、その老人から金を巻き上げてやろうと言う気が起きた。弱いものいじめはあまり好きじゃないが、気晴らしにはなるんじゃないかと思った。今考えればあの時の俺をぶん殴ってやりたいくらいだ。
でも、それがまた大きな出会いになった。
俺が近づくと老人は振り返った。髭は白くなっていたが長く伸ばしていて、髪も白髪交じりになっている。深く刻まれたシワが、彼の年齢が随分上であることを示していた。
無言で見下ろす俺に怯えるわけでも、軽蔑した目を向けるわけでもなかった。一度だけ俺を見てから、「お前さんの家はどこだい?」と言った。
「俺が怖くないのかよ」
「はは、こんなに可愛い子供を怖いだなんて思わないさ。もしかして、悪魔なのかい?」
「ボケてんのかじいさん。まあいいや。金出しなよ、そうすれば痛い目は見なくて済むからさ」
「金?金が欲しいのかい坊や」
「坊やって言うなよ、良いからホラ」
「駄目駄目、これで僕は大事な画材を買わなきゃなんだから」
「画材?」
「そうそう...それにお前さん、こんなところにいちゃ勿体無い目をしているなあ。おうちはあるのかい?」
「ないよ。とっくになくなった」
「ご両親は?」
「いないよ。ちなみに施設にも入ってないからな」
「ははは、察しが良いなあ。次にどんな質問しようとしているのかわかったのか。賢い子だ」
「なんだよ」
「そうかそうか。....坊や、僕のところに来てみないか?住む場所も、食事もあげよう」
「ヤだよ」
「どうして」
「もう今更誰かに情けかけられるのは嫌なんだよ」
「これは情けじゃないぞ。そうだな、言うなら働くこと、に近い」
「働く?」
「そうだ、僕のところで働いて、その対価として家や食事をもらう。健全で人間的な生活さ。その年じゃまだ新聞屋も喫茶店も雇ってくれんだろう。それなら、僕のところに来てみないか?人生何事も経験だぞ」
老人を見ると、先ほどまでの雰囲気とは打って変わってなぜか彼は生き生きとしていた。少年のような目になり、優しげに微笑んでいる。
草臥れた爺さんだなと思って近づいてみたのに、いつの間にか彼の生きる活力を感じる目に圧倒された。
そして何より、「人生は経験」というフレーズが俺の心を動かした。これは、叔父さんが良く言っていた言葉だったからだ。
大人の言いなりになるのは嫌だった。でも俺は、この老人の不思議な目に惹かれて、言われるがまま彼の家に着いて行く事にした。
彼は画家だった。ロンドンでは有名らしく、以前読んだ本の挿絵を描いているのも彼だった。表向き弟子として彼の元で生活する事になった俺は、また新しい世界を知る事になる。
その老人...アルバートは俺に絵の描き方だけでなく学問も教えてくれた。哲学のこと、数学のこと、文学のこと。全部新鮮で、毎日学ぶ事が楽しく仕方がなかった。
彼は俺に絵を描かせたかったみたいだが、残念ながらそちらの才能は開花せず、たまに落書きを描く程度だった。
アルバートに頼まれて絵の具を買いに行くついでに本屋で立ち読みしてばかりだった。
街に出るのは好きだったが、親子連れを見るのは好きではなかった。アルバートの事は祖父のように思っている。でもやっぱり、俺と母を捨てた父の事が俺の中では大きな靄になっていた。
ある日アルバートが、有名な貴族の晩餐会に呼ばれた。そこについていく事になった俺はアルバートが若い頃着ていたタキシードに身を包んだ。堅苦しい服は苦手だったが、アルバートの顔を立てるためだと思えば我慢は出来た。
初めて見る煌びやかな世界。
絵本の中だけのものだと思っていたような、大きな建物にドレスの女性。初めての光景に驚きを隠せなかった。
アルバートは俺の事を弟子だと皆に紹介した。
その場にいた大人たちは何やら感心したり褒めたりしていたが何を言われたかは覚えていない。
ただ、少し離れたところからじっと見ていた男の人だけは忘れられない。その人は、驚いた様に俺の顔を見ていた。しかし、何かを言われることはなかった。
俺が俗に言う社交界デビューを果たしたそのすぐ後だった。アルバートが俺に手紙が来たと言って一枚の封筒を渡した。
俺に手紙を寄越す相手なんか居ないから、驚きながら封を切る。
差出人は、ロバート・J・コリンズ。
俺と同じ苗字の男からだった。
その名を見て誰から来た手紙なのか、すぐにわかった。
几帳面そうな字で書かれていた内容は、衝撃的だった。
「愛するウィリアムへ
きっとこの手紙を受け取って君は驚きと怒りで破り棄てるかもしれない。読み終わってからならそれでも構わないから、どうか最後まで読んで欲しい。
簡潔に述べよう、私は君の父親だ。ジプシーの血を引く君の母、サラと私の子だ。
そして、謝らなければならない。サラがあんな目にあった時君の側にいられなかった事。君とサラをずっと2人だけにさせてしまっていた事。
弁明をするつもりも、許してもらえるとも思ってはいない。私は、罪深い事をしたと深く反省している。本当にすまなかった。
こんな事で罪を償えるとは思っていないが、せめて父としてウィリアム、君にしてやりたい事がある。それは我が聖クロイツ学院への入学を手配し、君が成人するまでの金銭的、精神的安定を約束する事。もし希望があれば成人してからの身の振り方も援助しよう。まだ君は若い。学院に入り、同世代の子供達と触れ合い、人間として成長していって欲しい。
君さえよければ我が家に移り住んで貰いたいとも思っている。
もしこの話を呑んでくれるのであれば、返事をくれるとありがたい。
では。良い返事をもらえる事を期待して。
ロバート・J・コリンズ」
ぐしゃりと手紙を握りつぶした。
反省?謝罪?俺はそんなものが欲しかったんじゃない。そんな思いがこみ上げてきて、心配そうに見守っていたアルバートをよそにそのまま手紙を暖炉に投げ込んでしまった。
アルバートは、「良いのか」と不安そうに尋ねた。俺は何も答えられなかった。
そうしてしばらくは父の手紙に気を取られて陰鬱な気持ちで過ごしていたが、アルバートがサーカスや図書館に連れて行ってくれたおかげで俺の気は紛れた。また、他愛もない日々を過ごした。
俺が12歳になった時、アルバートの体調が急変した。その頃からアルバートはよく咳き込んで一日中寝ている事が増えた。
確か70歳は超えていたと思う。俺は様々な本を読んで彼の介護をしながら新聞配達の仕事を始めた。
朝早くに起きて新聞を配って、朝市で食材を買ってその日の食事を作って、アルバートを起こして。ベッド周りにアトリエを移して、彼が寝たままでも仕事が出来るようにした。
本当は休んでいて欲しかったが、彼は絵を描いていないと駄目な性分だった。それは俺が何を言っても治らない、仕方のない事だった。アルバートは根っからの芸術家だった。
彼の描き上げた絵を売りに行ったり、本を作っている会社に持って行ったりと、俺にはそれしか出来なかった。
そして。
その日もいつもと同じ様に新聞配達を終えた俺が家に帰ると、アルバートは珍しく早起きしていた。
「ウィル、今日の仕事は終わった」
「何言ってるんだ?まだ朝だぜ、爺ちゃん」
「ボケてはおらんぞ。ウィリアム、お前と出会えて儂は本当に幸せだったよ」
「縁起でもねえこと言うなよ」
「いや、早めに言っておかねばならんと思うてな。子供は持たぬと生涯決めておったが、お前は儂の大事な息子...いや、孫か」
「....」
「良いか、ウィリアム。この先どんな事があっても人を憎んではいけないよ。お前は賢い子だ。だからこそ、人に優しく、自分に素直になりなさい」
「何言ってるんだよ...」
「儂はもう長くない。儂が居なくとも、お前は生きなければならん。お前はまだ若いのに、人の何倍もの経験をしている。だからその分、人よりも強い。強く優しい。儂は誇りに思うよ」
「おい、爺ちゃん」
「あの雨の日、お前に出会えてよかったよ。金出せと脅されてな。はは、儂の目に狂いは無かった。ありがとう、ウィリアム。老いぼれの面倒を見てくれて。人生の最後に、お前と過ごす事ができて、儂は幸せだよ」
「やめろよ、そんな、お別れみたいな事言うなよ!」
「はは、これしきの事で狼狽えるようじゃあまだまだ子供だなあ、ウィリアム。大丈夫、ちょっと眠るだけだよ」
「おい、待ってよ、俺まだ知らない事たくさんあるんだよ、爺ちゃん!なあ、待って、まだ眠らないでくれよ....!」
「可愛いのう。大丈夫、お前さんは立派な人間になるさ...ウィリアム...」
「なあ、爺ちゃん!まだ俺未熟だよ、爺ちゃんに教えてもらわなきゃいけない事たくさんあるぜ!?」
もうアルバートは動かなくなった。
でもその顔は穏やかで、静かで、本当に眠っているようだった。
涙で前が見えなくなった。握っていたアルバートの手が力無くベッドへと落下する。俺は何が何だかわからなくて、アルバートに縋って泣いた。
いつもの時間になっても俺が来ない事を不思議に思った編集者が家のベルを鳴らした。
泣きじゃくってもう涙も枯れた俺は妙に冷静な頭で「絵は出来ていないと謝らなくては」と考えながらドアを開けた。尋常じゃない俺の泣いた顔を見て編集者は驚いて中に入ってきた。そしてアルバートの姿を見て全て悟った彼もまた、悲しそうに涙をこぼした。
葬式は近しいものだけで執り行われた。ロンドン郊外の墓地に眠ったアルバートに俺はそっと彼の好きだった白い薔薇を手向けた。
弁護士が入り家の中の物を物色されて俺は些か不満だった。遺品整理というらしい。
親族のいないアルバートの物はどうなるのかと言う話し合いがなされる中、1人の弁護士がアルバートの遺書を見つけた。
1通は弁護士に向けたもの。そしてもう1通は、俺に向けたもの。
初めは2通とも弁護士が持って帰り、本当にアルバートの物か確かめるらしい。
その次の日くらいに、家に弁護士が尋ねてきた。遺品の中でウィリアムが欲しがったものはウィリアムに、それ以外は寄付に出すというもの。遺産はウィリアムに譲ること。
そんな事を急に言われても、頭が働かなかった。
俯いている俺に弁護士は、封の切られたもう1通の遺書を渡してきた。
もうすでに懐かしくなってしまったアルバートの字で「ウィリアムへ」と書いてあった。
弁護士を見ると、優しげに頷いた。その場でゆっくり手紙を出す。
「愛弟子・ウィリアムへ
きっとこの手紙を読んでいると言うことは儂はこの世から旅立ったんだろうな。
とうに心に決めていたが、死ぬ前の儂の長い演説はどうだったかな。あれではきっと足りないほど、ウィリアムには感謝している。手紙にしてしまったなら、ウィリアムを縛るものにしてしまいそうだから口頭できっと言っただろう。
ウィリアムには、儂のことなんか忘れるほど幸せな日々を過ごしてほしい。
さて、これは遺書というものなのだが、1つ謝りたい事がある。
それは、お前に内緒でお前のお父さんと連絡を取っていたという事だ。随分前にお父さんから手紙が届いただろう。あの後もずっと来ていたんだが、お前の気持ちの整理がつかんだろうと思って儂が一度返信をした事があった。そこからお前のお父さんとは連絡を取っていた。儂はもう長くない。それは分かっている。ずっと昔から決まっていたことだ。人間の生には逆らえん。
そうなるとお前のいき場所がなくなってしまう。親権もない儂の家に住む事もきっと問題になるだろうし、金銭的にも儂の微々たる遺産じゃ持つまい。
だから、ウィリアム。辛いかもしれんが、お父さんのところへ行くんだ。ロバートは悪い人間ではない。儂は彼と話して、彼が本当にお前を愛している事を知ったよ。これは儂の望みでもある。ウィリアム、学校へ行ってもっとたくさんのことを知りなさい。お父さんと、向き合ってみなさい。
絵描きジジイからの、最後のお願いだよ。
幸せになっておくれ。
偏屈絵描きジジイ アルバート」
再び視界がぼやけてくる。ポタリという音と共に、手紙のインクが滲んだ。
そしてタイミングよく自動車のエンジン音が聞こえたと思ったら、家の扉が開いた。
きっちりと黒い喪のスーツに身を包んだ、長身の男が入ってきた。その姿を見て、嫌でも一目で父さんだとわかった。
いつかの晩餐会で俺を遠目から見てきた男。手紙を寄越した男。俺の父親である男。
俺と同じブルーアッシュの瞳に、同じゴールドアッシュの髪。鏡で見た俺の顔が、大人になったらきっとこうなんだろうと思わせる顔だった。
「ウィリアム」
会いたかったけれど会いたく無かった存在でもある父親。嫌いで嫌いで仕方なくて、心の癒えない火傷を負わせた張本人。
それなのに、その声で名前を呼ばれて俺は涙が止まらなくなってしまった。
頬を伝ってポタポタと雫が垂れる。
父は、アルバートの遺言を知ってか知らずか、静かに言った。
「私と一緒に来てくれ」
俺は溢れ出る感情に、頷くしか無かった。
父は遠慮しているようだった。車の中でも話したのは2、3言。腹は減っていないか、とかその程度の事。今思えば、父はきっと不器用で臆病だったのだろう、特に初めて会う息子に対して。
車が到着した先は、大きな屋敷だった。
無言のまま案内され、客室らしき部屋に入ると「入学はすぐにでもできるが、どうしたい?」と問いかけられた。
「今すぐにでも、入りたい」
本音を言うと、きっとこの時はまだ父と一緒にいるのは怖かったんだと思う。また捨てられるとかそんなことを思っていた気がする。だから、早く学校に行って父といる時間を減らしたかった。
父の愛情を知るのが怖かった。
「わかった。では、明日入学手続きしよう。今日はもう遅い。ゆっくり休んでくれ」
「なあ」
「...」
「勘違いしないで欲しいんだけれど、俺は、爺ちゃんの遺言でここに来たんだからな」
「嗚呼。アルバート氏には感謝してしきれないな」
そういうと父は出て行った。
自分でもなんであんなこと言ったのかは分からない。ただの強がりだったかもしれない。
その日は気づいたら眠ってしまっていた。
翌日、目が覚めると枕元に食事があった。誰かの料理なんて久々に食べるな、と思いながら口に運ぶ。
食べ終わったくらいにドアがノックされた。
「御坊ちゃま、旦那様がお呼びです」
御坊ちゃま、だなんて呼ばれ方にむず痒さを感じれば返事もせずにドアを開けた。年配の女中がにこりと微笑みかけてくる。どうしたらいいかわからず無視して階段を降りると、父が待っていた。
「おはようウィリアム。着替えは済んでいないようだな。先に聞いておこうと思ったのだが、アルバート氏の遺品で欲しいものはあったか?」
「.....爺ちゃんがいつも使ってた瑪瑙のボールペンと、爺ちゃんが描いたガリバー旅行記の本。あと爺ちゃんのスケッチブックを何冊か。」
「わかった。今から取りに行ってくるよ」
「あと、俺の荷物があるからそれ。汚い革のトランクとぼろぼろのシャツがあると思う」
「新しいものなら買ってあげるが...」
「あんたの代わりに育ててくれた叔父さんの形見と母さんが作ったあんた用のシャツだよ」
「...すまなかった。すぐにとってくるよ」
一瞬、父の顔に悲しそうな表情が宿ったが、そんなの気にせず俺は来た道を帰った。
優しさで言ってるのもわかった。でもどうしても素直になれない。苛ついてしまう。
遠ざかっていく革靴の音を聴きながら俺は自分の部屋に戻った。
女中が持ってきた白いシャツとベスト、スラックスに赤いリボンを身につけると、女中はにこにこしながら「よくお似合いですよ」と言った。
どうやらこれが制服らしい。黒いジャケットがあるが、肩が張って動きにくいので着たくない。
玄関の開く音と同時に再び革靴の音が近づいてくる。
「私がお渡ししておきますよ」という女中の声に「いや、私が渡すよ」と父が返しているのが聞こえた。すぐさまノックの音が響き、ドアが開いた。
「これで合っているかな」
父が大切そうに抱えていた革トランクを受け取ると、その中を開けて確認する。叔父のトランクの中に、頼んでいたものは全て揃っていた。
「合ってる」
「そうか、良かった」
言いたくはないけれど、アルバートの教えで礼を言う習慣がこびり付いていた。どんなに嫌な相手でも、礼は忘れるなとアルバートはよく言っていた。
「.........ありがとう」
だからこれは、アルバートの教えを守って言ったお礼だ、と自分に変な言い訳をする。
「...どういたしまして」
俺の言葉に父は息を飲んで、それから噛みしめるように言った。それからすぐに部屋から出て行き、代わりに女中が「ご準備できましたら下へ」と声をかけた。
トランクを再び閉めると、俺は部屋を出た。
階下には父の姿は無く、白い手袋の運転手に連れられて車に乗った。
学校はロンドンの端にあるらしかった。
無言の車内の中、飛んでいく窓の景色を眺める。深くため息を吐いた。
「到着致しました」
いつのまにか眠っていたようで、運転手の声で目を開けると窓の外には大きな建物が見えた。
緑に囲まれて佇むその学校からはちょうど鐘の音が聞こえてきた。
教師らしき男が迎えに来たのでまた黙ってついていくと、理事長室に通された。
「理事長、転校生をお連れしました」
「どうぞ」
扉の向こうにいたのは、父だった。理事長だったのか。そのことを知らなかった俺は驚きながらもそれを悟られないようにした。
「ウィリアム、今日からこの聖クロイツ学院で生活してもらう。寄宿舎は南棟にある。良い学院生活を」
淡々と言うと書類にサインをし、それを俺に手渡す。
「それから、しばらくの間は生活に慣れる為、世話係を付けることにした。入ってくれ」
先程入ってきたドアが開き、身を滑らせてきたのは、女と見間違うような少年だった。
髪は肩のあたりで切りそろえられており、暗闇でも目立つんじゃないかというくらい輝く金髪で、サファイアのような瞳が俺を少しだけ不安そうにじっと見つめた。
「ヴィンセントだ。うちの模範生徒で、とても優秀な良い子だ。君より1つ年下だがきっと仲良くなれるだろう」
「ヴィンセントです。よろしくお願い致します」
握手を求めて手を伸ばしてきたヴィンセントの手を掴み、「よろしく」と言うと彼は微笑んだ。
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