月夜
なりふり構わず図書室から飛び出したは良いものの、部屋に帰る気にはなれずただ逃げ出してしまいたかった。
どうして僕ってこんなに弱いんだろう。ウィリアム先輩が優しいのは知っているのに。
しかし、ルドルフが言うには彼の告白を受け入れたような返答をしたらしい。大嫌いで意地悪なルドルフに負けたようで悔しくなる。
校庭に出ようとしている生徒の横をクラウスが通り過ぎると彼らは不思議そうな顔をした。
「今クラウス泣いてたか?」
「泣いてたよなあ」
いつもならどう見えるか気にしていると言うのに、今は構っていられない。生徒たちの会話は聞こえていたがいっぱいいっぱいだった。
どこか1人になれるところに行きたい。
足も疲れてきて、走るのをやめてしまうと頬を伝う大粒の涙を拭いながらとぼとぼ歩いた。夕日が斜めに差し込んできて、ますます惨めな気持ちになってしまう。
床の木の板を見つめながら嫌なことばかり考えて歩いていたらいつのまにか東棟の一番端に来てしまっていた。
他の棟より古い東棟の床板がぎしぎしと軋む。
ふと誰かが言っていた東棟の幽霊の話を思い出してしまった。その瞬間、遠くの空で鳥の鳴き声が悲鳴のように響く。
「うわっ」
その音に驚いたクラウスは肩を震わせて身を強張らせた。
クラウスはお化けが大嫌いだ。ハロウィーンの被り物にもびっくりしてしまう。
嫌な気持ちに畳み掛けるように、いつもなら誰かが居るはずの東棟は静まり返って恐怖を煽る。東の空はもう紺色に染まり、日没までもうすぐだ。
しんと静まりかえった廊下を振り返っても誰もいない。右手にある教室も、今や物置になっているようで窓から覗いているなにかの置物がこちらを見ていた。
クラウスは急に怖くなって、その場から動けなくなってしまった。動いたらお化けにバレてしまうと思ったからだ。
なんでこんなところまで来ちゃったんだろう。
後先考えずに来てしまった自分がまた惨めになってきて涙が溢れてくる。
泣いたらお化けにバレちゃうのに。
そう思いながらも恐怖と不甲斐なさの涙は止める事ができない。出来るだけ声を抑えているがすすり泣く声は嫌でも廊下にこだましてしまっている。
このままここで死んでしまっても良いかもしれない。そんな事まで思い始めてしまう。
どうせ死ぬならお化けは怖くないかもな。
考えすぎたせいかお腹まで痛くなってくればその場でうずくまる。
とうとう声を上げて泣き始めた。
悲しい。誰が最初に死体を見つけてくれるかな。ママン悲しむかな。
そんなことを思っていると、
「煩いよ」
うずくまったクラウスの頭上から声がした。
「きゃーっ!!」
驚いたクラウスはお腹痛いことや泣いていたことなんか忘れて大きな声を出す。
逃げようとするが慌てていたせいで転んでしまう。
お化けに食べられてしまう。
「ごめんなさいごめんなさいやっぱり食べないで!!殺さないでー!」
「殺さないよ」
冷静な声で答えられてしまった。
「煩いよ。なに?迷子?」
思ったよりも普通に言われて拍子抜けしたクラウスが恐る恐る目を開けると、そこには見たことのない少年が立っていた。クラウスより年は上に見える。
金色の巻き毛は額を避けて風になびくような形をしており、瞳は深いブルーをしている。何処か寂しそうな目をしているが、纏う雰囲気は高貴なものだった。
目の前に現れた少年の幽霊に驚きつつ、その整った顔にクラウスは見惚れた。
こんな綺麗な幽霊だったら怖くないかもなぁ。ぼんやりとそんなことを思うと、少年は不機嫌そうな顔になった。
「迷子なの?なに?」
「あ、えっと…迷子じゃなくって…」
なんて説明したら良いかわからずしどろもどろになって目を伏せる。よく見たら、少年もこの学院の制服を着ている。ここで死んだ幽霊なのかもしれない。
「…なんで泣いてたの?お腹痛いの?」
「違くて…いや、お腹は痛いんだけど…」
「どういうこと?」
「嫌な事があって、それで泣いて走ったらここまで来ちゃって、そしたらお腹痛くなっちゃって…」
じっと見つめられてあまり上手く喋れず、しどろもどろになっていると少年が尻餅ついたままのクラウスを抱き起こした。その場で座らされると、少しだけ落ち着いたクラウスが改めて少年を見る。
全く見た事がない。こんなに綺麗な生徒がいたらみんなの注目の的だろうし、噂にもなるだろう。それなのになにも聞かないと言うことは、やっぱり幽霊なのかもしれない。
「君、名前は?」
「く、クラウス ハーロック…」
「ふーん。随分泣いてたけど、なにがあったの」
ぶっきらぼうな言い方で問いかけるが、どこか優しさを感じさせる。1人になりたいとは思ったけれど1人で抱え込むのは正直辛かった。
本当にいいのか不安になるが、吐き出してしまいたかった。クラウスは、少年に今日あった「嫌な事」を話すことにした。
「そういうことね」
「こんな話ししてごめんなさい…」
「別にいいよ。まあでも、君がその…ウィル?のことが好きなら一途に行けばいいんじゃない?」
クラウスが話している間、黙って少年は聞いてくれていた。変に相槌打つこともなければ茶化すこともなく。それがクラウスには心地が良かった。
誰かに話すことでこんなに心が落ち着くのかと不思議に思いつつ、軽くため息つくと少年が初めて微笑んだ。
「ウィルって奴はこんな良い子に愛されて幸せだな」
何気なく呟いた彼の言葉がクラウスの心にジワリと広がる。
隣に座った彼の方を見上げると、少年の向こうには月が出ていた。逆光の中ゆるく微笑んで立てた膝に頬杖つく彼の姿はまるで絵画のようだった。なんとも幻想的なその光景にクラウスが再び見惚れていると、遠くから自分を呼ぶ声がする。
「クラウスー!」
アスランの声だ。こんな時間まで探し回っていてくれたのか。優しい友人の声を聞いてクラウスは我に返る。
「お別れの時間だね、クラウス」
「…ありがとう、幽霊さん」
思いがけない呼び方に少年は一瞬驚いた顔をしたがすぐさま片頬だけで笑う。
「ルイだよ。またね」
そういうと少年…ルイは窓を飛び越えて庭の方へ出て行ってしまった。その背中を追いかけることも、見送ることもせずクラウスはただぼうっとその場所で月を見上げる。
気持ちに整理がついたようだ。
「クラウスー!いたいた!よかったぁ」
運動が苦手なアスランが汗だくになって近づいてくる。それがたまらなく嬉しくなって、クラウスは抱きついた。
「ごめんねアスラン」
「大丈夫だよ。落ち着いた?」
「うん。ありがとう」
「よかった。お部屋いこ?」
ずっと探してくれていたのかな。
優しい友人から離れると、クラウスは甘えるように彼と手を繋いで月明かりが差し込むその廊下を後にした。
0コメント