花の子
昼下がりのあのことがあってから、クラウスは舞い上がったままで授業を聞くのも上の空だった。
抱きとめられた時に触れた腕。香る煙草のにおい。グレーに近い色の瞳。
「かっこよかったなあ〜」
出された宿題をこなすためにアスランと図書館に来たクラウスは思わず声に出して呟いた。横で参考書とにらめっこしていたアスランは顔を上げて親友の顔を見る。
どこか遠くを見て夢心地の様子で、口元はだらしなく緩んでいる。しみじみとアスランは、恋ってすごいなあと思った。
「あんなに一瞬だったのにすぐ僕を抱きとめてくれたんだよ、すごいよね〜」
「そうだねえ、早かったね〜」
夢うつつな口調のクラウスに頷きながら再び参考書に目を戻す。クラウスに合わせていたんじゃきっと宿題も満足に進まないと判断したアスランは自分のことに集中しようとする。
図書室の中には、クラウスたちと同じく課題をしに来ているらしい生徒が窓際と真ん中に2人ずつ、本を物色している生徒が数人、奥の物陰になっているソファに顔に本を乗せて寝ている生徒が1人、あとは机に向かっている生徒が何人かしかいなかった。
いつもは図書室の利用をしないのだが、今日の宿題が難しく、資料を使わないと出来ないと思ったため2人でやってきたのだった。
蔵書は全部で1万を超えるであろう大きな図書室は混んでいる時と混んでいない時の差が随分ある。今日はその、混んでいない日だったらしい。
ちょうど良く勉強できそうな様子だった。
アスランがせっせと宿題に精を出している横でクラウスは鉛筆も持たず、頬杖ついて正面にある窓から空を眺めている。脳裏に浮かぶのはウィリアムのこと。
本人に自覚はないが、周りから見れば確実に「恋」だと言われるだろう。それほどまでに、骨抜きにされていた。
また会う機会があったら良いなあ。下駄箱に手紙でも入れちゃおうかな。でもそれは嫌がられるかも。
ぐるぐると頭の中で色々な妄想を膨らませる。自然と笑みがこぼれてきてしまう。
もうすぐ五月祭があるから、その劇で王子様役とかウィリアム先輩がやってくれたらいいなあ。
夏に一緒に海に行くところまで想像した時、図書室のドアが開いて数人の生徒たちが入ってきた。
図書室内にいた生徒たちがざわめき始め、図書室内の先ほどまでの静寂が破られる。
気持ちのいい想像をしていたところで現実に引き戻されたクラウスが振り返ってドアの方を見る。
「あれぇ、クルゥ。珍しいね」
数人の少年たちの真ん中、見た目だけで言ったら花のように美しい顔をしてルドルフが立っていた。
耳の後ろの巻き髪を細い人差し指でくるりと巻き取りながら、まるで女のような立ち方でクラウスを見ている。彼の周りの取り巻きは中級から上級生しかいない。
その声の主を認知したクラウスはあからさまに嫌な顔をした。
良い気分だったのに最悪だ。
横ではアスランがどうしようと焦っている。
「何が珍しいの」
「クルゥ、お勉強嫌いでしょう?図書室にいるの、珍しいなぁって思って。」
そう言われると、正直返す言葉もない。学ぶ気あるが机に向き合う勉強はからきしなのだ。言い訳するのもどうせ意味がないと思ったクラウスはルドルフをきっ、と睨み付け、無視しようと体の向きを前に戻した。
金のおかっぱ頭の後頭部を見てルドルフはくすりと唇に三日月を描いた。
無視なんて出来ないよう、再び口を開く。
「ねえクルゥ、ウィルを見なかった?」
クラウスの動きが止まる。
一気に顔が熱くなり、嫌な気持ちと同時に怒りがこみ上げてくる。
どうしてウィリアム先輩を探しているの?なんでウィルって呼んでるの?なんで僕に聞くの?
ルルはわざと言っている。僕がウィリアム先輩に懐いていることを何処かで知ったんだ。
今すぐ食ってかかりたい気持ちを抑えて、これはルドルフの罠だと思えば頭に上った血はゆっくりと降りてくる。一呼吸置いて、ルルの方を向くことはなく答えた。
「見てないよ。僕、あの人にそんなに会ったことないし。僕に聞いてもしょうがないよ」
本当は助けてもらったことがあるとか、可愛いと言われたとかそういうことを目一杯自慢してやりたい。しかしルドルフの意図が読み取れない限り、付け込まれるようなことは言いたくなかった。
「あれえ、そうなんだあ。てっきり、ミサの時隣に座っていたから仲良しなのかと思ったよ」
憎らしいほど美しい花のような微笑みをこぼしながらルドルフは嫌味を言う。クラウスは鼻にしわを寄せて拳を握りしめた。
「そっかぁ、クルゥが知らないなら図書室に来た意味がないなあ。あ、聞いてよ。この間ウィルに好きだよって言ったら『お前に好かれて嬉しい』って言われたんだあ。彼も僕に気があるのかしら」
頭を殴られたような衝撃だった。クラウスは反射的に立ち上がって、涙目になった大きな目でルドルフを睨みつけた。
嘘だ嘘だ。
悲しいやら、惨めやら、ウィリアムがこんな奴を好きになるわけがないとか、そんな事を思いながらもルドルフから言われた言葉が深く心に突き刺さる。
「どうしたの?泣いちゃいそうじゃないか。ハンカチあるよ」
さも優しい同級生かのような顔をして眉を下げたルドルフが差し出したハンカチは、皮肉にもクラウスが好きなポピーの花柄だ。
全てに腹が立って、よくわからないめちゃくちゃな感情になってしまったクラウスは差し出されたハンカチを押しのけて、そのまま走り出した。
ルドルフがその反動で軽くよろめくと、取り巻きの1人が彼を支えた。ルドルフは態とらしく申し訳なさそうな目で図書室のドアの方を見ている。
図書室から勢いよく飛び出して行ってしまったクラウスを見て、横ではらはらしながら見守っていたアスランも立ち上がる。
素早く荷物をまとめてから冷静な声で「あまり友人をいじめないでください」とルドルフに言い放つとその後を追った。
「そんなに嫌なこと言っちゃったのかなあ」
嘘っぽい悲しげな声で呟くと、取り巻きたちがルドルフを慰めながら図書室から出るように案内する。彼らが出て行くと図書室内に再び静寂と日常が戻った。中にいた生徒たちも様子を伺っていたがすぐに自分たちの世界へ戻っていく。
そして、物陰に隠れたソファで眠っていたウィリアムは一連の流れを全て聞いて深くため息ついた。
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