天使の泪4
「わあすごい!」
時計の針がてっぺんを指す頃にキッチンで料理していると匂いを嗅ぎつけてきたのか、ミカエルが近づいてきた。先ほどまで、小さな書斎で楽しそうにミケランジェロの画集を見ていたのに気配なく室内まで来ていたらしい。
何処か人離れした動きを見せる彼へ驚くが、彼が天使ならもっと驚くことが起きるかもしれないし早く慣れた方がいいな、と苦笑いする。
まるで昔からそうしていたかのようにミカエルが後ろから抱きついてレオの手元を覗き込む。ふわりと薔薇の匂いが鼻をかすめる。一瞬どきりと心臓がなったが、それには気づかないふりをする。
ミカエルが昔からの友人のように接するならば、レオもそうすることにした。
まだ出会ってから半日も経っていないのに、彼のスキンシップや言葉、行動には全く嫌な気がせず、ずっと昔からこんな風に2人で暮らしていたのかもしれないと錯覚するほどだった。
レオは外面のいい青年ではあったが、何処か達観して人と深くまで仲良くなることができなかった。本人もそれは自覚があるし、治したいとも思っている。しかしどう行動に移したらいいかが分からないでいるのだ。友人たちと居ても、少しだけ浮いているような気がしていた。
実際、彼らからも「浮世離れしていてなかなか近寄り難い」や「高嶺の花だからな」などと揶揄され、寂しさを感じずにはいられなかった。そんな中、急に現れた少年にこんなにも懐かれているとは、友人たちが見たらどんなに驚くことだろう。いや、懐かれていると言うのは驕りかもしれない。しかし、嫌われているとは思えなかった。
「ねえ、これはお月様の卵?」
器用な手つきで卵を焼くレオに問いかけると、レオは笑った。
「いや?これは鶏の卵だよ。」
「にわとり…」
「地上の生き物だよ。でも確かにお月様にも見えるね」
側から見たら不思議なやりとりに見えるかもしれないがレオは、ミカエルが本当に天使なのだと思うことにした。色々と頭の中だけで考えるよりも受け入れてしまった方がよっぽど楽だ。
フライパンの中に流し込んだとき卵は円形になり、確かに満月のように見える。油はねもあって少しクレーターのような窪みができているのでなおさらそう見える。
ただのオムライスを作っているだけなのに、彼の目にはとても美しい光景が映っているのかもしれない。こんな日常的に風景にも美しい光景を見出しているミカエルの感性に新鮮な衝撃を受けた。
「何を作るの?」
「オムライス。この卵をそこのご飯に被せて完成だから、もう少し待っていて。」
「うん」
もう既にライスは皿の上に盛られており、今度はそちらに興味が湧いたのかミカエルは皿へと近づいていく。ちらりと見ると、貸した服のズボンを少し引きずっていることに気づいた。
あとで服を買いに行ってやってもいいかもしれないな。
そんなことを思いながらこんがりと焼けて固まった卵をフライパンからライスの上に落とす。油が滑ってつるりと綺麗な形を描いたライスの上に卵が落ちていく。ライスの厚みで卵も膨らんだ形になった。
「わあ、本当にお月様みたいになった。」
フライパンをコンロに戻しながらはしゃいだ声を上げるミカエルのふわふわとした金髪が堪らなくなり、半ば衝動的にそっと撫でると、予想以上に柔らかく繊細だった。
そこらの犬猫を撫でるのとは訳が違う。細い髪がきらりと反射する。
もう少し撫でたい。
そう思った瞬間、ミカエルが振り返りサファイアを溶かした瞳がじっとレオを見つめる。全てを見透かされているような気がして何気なく手を引き、平静を装ってもう一つ卵をフライパンに入れてとく。
だめだ。
彼は家出少年なんだ。すぐ家に返してやらなくてはいけない。あまり深入りしてはいけない。
何も考えないようにしようと無心で卵を焼いていると再びミカエルが近寄ってくる。
「撫でてもいいよ。レオなら。」
やっぱり見透かされているんだな。
驚きのような、観念したような、本当に天使なんだというような、不思議な気持ちになったが嫌悪にはならなかった。もし心が読まれているのなら、丁寧に丁寧に心を紡がないといけないと思った。たとえ心が読まれていなかったとしても、彼に対しては誠実に生きたいとは思う。
「ミカ、君は心が読めるのか?」
「読めるよ。大抵の人はね。」
「そうか。なんだか気恥ずかしいな。」
「どうして」
焼きあがった卵をもう一つのライスの上にするりと落とす。
「どうしてだろうなあ。」
僕が彼の動作一つ一つを目で追っていることも気づいているんだろうな。
答えははぐらかしたが、心の中でそう思えばあまり意味のないことだ。
彼に心を知られていることを承知でこれからは生活していかなくてはいけないな。
自分が常に何を考えて生活していたか思い出そうとしたが、過ぎていく景色と同じですぐに思い出すことはできなかった。
「大丈夫だよ。大抵のことじゃ僕驚かないし。」
小さな天使は、身長の高いレオを見上げてにっこりと微笑んだ。
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