天使の泪2

泥のついたネグリジェをどうしようかと考えを巡らせ、脱がしてあげたほうが良いのかもしれないと思うがこの白い四肢を本人も知らない間に露わにさせるのも純情な彼には罪悪に感じられた。幸い濡れているわけでもなかったのでそのままにし、タオルを敷いてベッドに寝かせた。氷のように冷たかった手足に少し暖かさが戻り、胸を撫で下ろした。
決して安くない家賃の古いアパートの一室が、月光も相まって彼女が存在することにより絵画の中の一枚のように切り取られる。
自分の部屋ではないかのような錯覚を覚えた。
彼は明日のアルバイトも休みだったし、何よりこの絵画のような光景から目が離したくない。ゆっくりとベッドのそばに1人掛けソファを持ってきてそこに腰を下ろした。眠っている少女を見つめるのはあまり傍目から見てもいいものではないんじゃないか。いや、これは立派な看病だと自分に言い聞かせて少しの罪悪感を出来るだけ考えないようにする。
ベッドサイドのランプの光に照らされた彼女の肌は月光の下で見たのと変わらずきめ細かく白い。彼はこんなに美しい少女を見たことが無かった。
彼は、画家を目指していた。それもあってか、美に関してはひときわ敏感だった。彼のルックスのせいもあって女性に言い寄られることは多いのだが、いつも女性の両目のバランスだとか鼻の角度だとかが気になってどうにも恋にまで発展することは無かった。それもあって、こんなにも純粋に美しいと思える顔立ちの人間に出会えたのが奇跡のように思えるのだ。
彼女は何者なのだろうか、家はどこなのだろうか、なんという名前なのだろうか…
様々な疑問と興味が湧いてくる。あの青年たちが連れて帰りたくなるのも無理もない。現にこうやって自分は家に連れてきてしまったわけだから。決して邪なことは考えず、彼女が目覚めたら安全に家まで送っていってあげよう。そう心に決めると、自らも目を閉じでゆっくりと眠りに落ちていった。
美しい夜の夢を見た。

衣擦れと欠伸の吐息と小鳥の鳴き声で眠りから呼び覚まされる。伸びをしながら目を開けて、驚いた。
寝ぼけた彼の記憶には昨日の出来事はすっかり抜け落ちていた所為で、目の前の光景が信じられない。
どうしてこんなに美しい少女がいるんだ?いや、昨日そういえば倒れているところを助けたんだっけ。
一瞬硬直したあと、すぐに昨晩の出来事を思い出す。自分のベッドに、目を見張るような美しい少女が半身起してこちらを見ていた。
半ば夢のように思っていたが、確かに彼女はそこに存在している。眠そうな目だがしっかりとこちらを見つめていた。窓から差し込んでくる日光に反射して髪の一本一本がきらきらと光っている。朝になっても絵画のような光景に唾を飲み込む。
何か言わなくてはならないと思い、咄嗟に「おはよう」と言った。
彼女は軽く首を傾げて返事はしない。まあ、それはそうだろう。いきなり知らない男の部屋にいて知らない男におはようと言われても…自分で自分の気の使えなさに疲弊しながら次の言葉を見つける。
「道に君が倒れていて。あんなところで眠っていたら危ないよ、女の子が1人で。」
「…地上の空気が悪いのがいけない」
家まで送ろうか、と続ける前に遮られてしまった。
地上?不思議な言い回しをするんだなと思うと同時に、彼女の声に驚いた。
低い。思っていた鈴を転がすような声ともまた違う。しかし、品はある。
声変わりした後くらいのまぎれもない少年の声なのだ。目を丸くしながら失礼とわかっていつつも顔を凝視してしまう。
「男の子?」
「どっからどーみてもそうだろ」
美しい声と顔に似つかわない粗暴な言葉遣いで少年は呟き、眠たそうに髪をかきあげて欠伸をする。
こんなにも嫋やかで美しい姿をどっからどう見ても、というのは些か疑問だが、あまり彼を刺激しない方がいいと思い、「ごめんね、あまりにも綺麗だったから」と返した。
彼はちょっとだけ不満そうな表情をした後、肩をすくめる。
「まあ、それはそうだと思うけど」
自分の美を自覚しているのか。妙に大人びて聞こえる言動に拍子抜けしたように肩をすくめつつ、がしがしと柔らかそうな金色の髪をかきあげる彼を見つめる。幼く見えるが案外達観しているのかもしれないな。分析しながら注意深く彼の動き一つ一つを観察していく。開いた瞳はサファイアのような青で、思っていたよりも意志の強い目をしていた。動きも少し雑だが要所の所作は美しい。まさに神が与えた美を彼は持っていた。
「名前は?おにーさん」
じっと見つめられているのに気づいたのか彼が首を傾げながら問いかける。
「僕?僕はレオ。」
「ふーん」
相手の名前を聞いておいて別に彼は自分の名前を名乗ることはしない。しかしレオは、気分を害すほどでもなくまるで動く絵画のごとき彼の動きに心奪われて名を聞くことすら忘れていた。
彼が細い身体をしならせて伸びをし、ベッドから起き上がろうとすると、少年は自分の衣服が汚れていることに気がついた。裾についた泥を見てうへぇ、と顔をしかめる。
「ねえレオ、何か服貸して。僕汚れた服着てたくない。」
昔からの知り合いかのような言い方で悪びれることもなく、甘える子供のようにも取れることを言う彼に不思議と腹をたてることはなく、言われるがままクローゼットから適当なズボンとシャツを引っ張り出すと渡した。
彼は渡された糊のきいた白いシャツを両手で広げて「こんなの人間は着るんだ」とまたしても不思議なことを言いながらベッドへシャツを一度投げる。
自分の着ていたネグリジェを、レオがいるのなんか御構い無しに勢いよく脱ぐと真っ白な身体が露わになった。男同士なら全く問題はないのだが、なんだか見てはいけないような気がして少し目をそらす。
視界の端に映る白い肢体は目の毒だ。と言わんばかりに、レオは純情な乙女かのように見ないように配慮した。少年だとわかっていても心のどこかでまだ少女かもしれないとも思ったからだろう。
もぞもぞと着替えている彼の背中に傷があるのだけがなんとなく印象に残った。火傷だろうか。一瞬だけチラリと見えただけだからわからないが、肩甲骨あたりに対になって引き攣れたような跡がある。少しだけかわいそうになって、もしかしたら家出少年なのかもしれないなんてことを想像する。
あまり家のことは聞かない方がいいだろうか。
でも、家に送ってあげたいしな。
そう思ったとき、
「嗚呼僕、帰るところないから。暫く泊めて」
と彼は天使のような横顔でいたずらっぽく言い、その有無言わせぬ物言いにレオは微笑み返して頷くしかできなかった。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。