天使の泪
どうしてだかは忘れてしまった。ただ僕は初めて体の重さというものを感じて、ゆっくりゆっくりと羽ばたいていたはずの空を見上げて、浮かぶ雲の上では兄さんがどんな顔してるんだろうなとか、戻れるのかなとか、そんなことばかり考えていた。
落ちたらどうなるのかなんて、僕には見当もつかない。
太陽が眩しくて、思わず目を瞑るとなんだかどうでもよくなってそのまま眠ってしまった…
アルバイトの帰り、彼は僅かに湧き上がる喜びの感情を噛み締めながらで雨上がりの夜道を歩いていた。なぜ彼が上機嫌なのかというと、先月いつもの倍ほど働いた分の給料がたんまりと入ったからだ。感情を表にに出す方では無いのだが、懐が暖かいというのはそれだけで人を幸せな気持ちにする。自然と足取りが軽くなり、後片付けが尾を引いていつもよりも遅い時間の帰宅だが、それすらも気にならないほどだ。
彼は片田舎から美術の勉強をするために街へと出て来て、周りは他のものに目移りして遊んだり浪費したりする中脇目も振らずに勉学に勤しむという、誠実な青年だ。美術関係の学校は学費も馬鹿にならないし画材なんかにも費用がかかる。彼は家に馬がいたり女中がいたりするほど裕福な生まれでもなく、家賃や物価が高いが文化の中心であるこの街で一人暮らしをしているため、あまり贅沢もできなかった。通常の給料の二倍貰えたとなれば、気分が上がるのも当然だった。
気が大きくなったのか、嬉しさからあまり寒さを感じないからか、突然いつもならしないようなことがしたくなった。普段ならばさっさと家に帰って眠りたくなるのだが、少しだけ違う風景が見たくなった。なかなか通ることのない裏道から帰ることにした。
この辺りに越してきたときは治安があまり良くなく、1人で夜で歩くことが憚られたものだった。しかし市長が変わって自警団や警察巡回が増えたおかげもあってかこの頃は随分歩きやすくなった。
地面の整備はされたがアスファルトではなく石畳で、まだまだ発展の余地があることは明らかなのだが。路端で眠っている人は少なくは無いが、彼らが暴力に怯えずこう眠れているのはある意味で治安がいい証拠なのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、目の前に数人の若い青年集団がいるのが見えた。街灯の下彼らはなにかを囲んでいるようだ。お世辞にも柄がいいとは言えない彼らにできるだけ近寄らないようにしようと思う反面、彼らが何か悪いことをしているのでは無いかという疑いを抱く。
こういう輩にはできるだけ関わらないほうがいいのだが、もし彼らがリンチなどしていようものならどうにかしてやりたいという正義感が生まれた。喧嘩は得意では無いし、商売道具である手を怪我したく無いというのが本心だが、放っておけるほど無慈悲な人間では無い。
恐る恐る近づくと彼らの話し声が聞こえる。
「随分べっぴんさんだな。連れて帰るか」
「こんなとこで眠っているほうが悪いな」
「どうせ男に捨てられたか何かじゃ無いか?」
「そしたらなおさら慰めてやらなきゃだなあ」
下衆な話をしているようだ。内容から察するに、道で眠っている女性を連れて帰り良く無いことをするつもりらしい。元から正義感の強い彼は、話の内容から許せなくなり思わず声をかける。
「すみません、この人僕の連れなんです。お騒がせしました。」
急に現れて自分たちのエモノ、とも言える少女をとっていこうとする彼に男たちは何か反発しようと睨みつける。しかしそこに立っていたのは自分たちとはまるで住む世界が違うかのような完璧なルックスの彼だった。男たちはものを言いあぐねているうちに劣等感の方が湧き上がってきて結局いそいそと道を開けるしかなかった。
正義感と同時にその誠実でまっすぐな瞳が、彼らの僅かな良心の隙間に入り込んで悪行を怯ませたのだった。
「ありがとう。」
凛とした声で彼がいうと男たちはヘラと笑って何処かへ去っていった。
そんなに悪い奴らじゃなかったのかもしれないと思ったが、自分より弱そうな女性に横暴働こうとしていた罪は変わらないと許しかけた罪の天秤を改める。
彼らの足音が遠のき、あたりはしんと静まりかえる。もし彼らのうち誰かが後ろから殴りかかってくるかもしれないと油断せずに身を強張らせていたが完全に気配がなくなると細く息を吐いた。
初めてその話題となっている女性と思われる人物に目を向けると、思わず息を呑み、形の良い手で自らの口元を抑えた。その行動が人間の自然的な行為なのかそれともこうしないと声が出てしまうからなのかは定かではない。
嗚呼、この世には本当に天使が存在する。
そこにはこの世のものとは思えぬほど美しい少女が横たわっていた。こんな雨上がりの路地裏に似つかわしく無い真っ白のネグリジェドレスのようなものは月光に照らされて白く反射しており、それに負けぬほどレースから伸びた首も白い。可哀想に、純白のドレスの裾は泥で汚れてしまっていた。小さな顔は月を溶かしたような金色のゆるい巻き毛に覆われて、同じ金色のまつ毛は長く伸びている。艶やかな唇はさくらんぼのような鮮やかな色でキュッと閉じられていた。
彼は、昔美術館で見た天使の肖像を思い浮かべた程だ。
思わず見惚れてしまっていたが、不意に吹いた風の冷たさに身を震わせると自分よりも薄着の彼女に着ていたコートを掛けてゆっくりと抱き上げる。見た目よりも軽い身体を大切そうに抱えると、ここに放っておくよりも良いだろうと判断し自宅への道を急いだ。
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