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「誰かが居るのです」
静かに彼女が打ち明けたのは雨が細く降る夜だった。

その日私は、古くからの友人の家を訪ねることになっていた。大学時代の友人で、卒業してからぱたりと連絡が途絶えていたのだが風の噂で私たちのゼミナールの教授が亡くなったと聞いてふと思い出したのだ。
人とは無情なもので、大学を出てから一つも気にしていなかった教授のことを、亡くなったと聞いてから慈しんだり悲しんだりするものなのだ。
私も例外なくなんだかいたたまれない気持ちになり、最も大学時代仲のよかった彼の元を訪ねたのだった。勿論、葬儀や通夜に出るかの相談もしたかった。
彼は大学卒業後小説家になったと聞いた。仲が良かったのに知らないのかと思われるかもしれないが、大学時代はほぼ毎日ともに過ごしていたのもあって、敢えて連絡を取るのも気恥ずかしいような間柄だった。彼に対して興味はあったし、何をしているのか気になりはしたのだが若い感性特有の不思議なプライドのせいで私たちは連絡を取り合うことをしなかった。
小説家になったらしい彼の噂はぽつぽつ耳にはしたが彼の小説を手に取ることはなかったし、これからも手に取る予定はない。妙に気恥ずかしくなる気がするのだ。兄弟の恋文を盗み見ているような、そんな不思議な羞恥心が生まれてしまい、どうにも手に取ることはできなかった。
なかなか評判は良いらしく、文芸賞にノミネートもされていたようだ。惜しくも入選ははたせなかったみたいだが。
そんな彼の自宅は都内から少し離れた閑静な街にあった。駅から徒歩5分程度の勝手のいい立地だ。駅前も繁盛しているようだったし、不自由もないだろう土地に私は少々嫉妬を覚えた。なにせ私は安月給で馬車馬のように働いていたので都内に住めるような余裕もなかったのだ。
人々が行き交い、自動車がライトを点け始める時間帯に私は教えてもらった住所へと向かって歩いている。暗い中でもよくわかるような曇天が今にも雨を降らせそうだ。傘を持ってきていなかったが、最悪彼に借りれば良いか、などと軽いことを考える。
言われた通りの番地に到着すると、羨望のような、はたまた妬心のようなものがじわりと胸に広がっていく。彼の家は、絵に描いたような豪邸だったのだ。日本家屋と称すべき形の家は素人目に見てもかなり広く、庭の草木は業者が入っただろう造形に葉を伸ばしている。石畳には落ち葉一つなく、歩くこちらを恐縮させるような威厳がある。
建物にまで圧倒され、私は一瞬怯んだがそれも悔しくなって誰もいないのに姿勢を正した。我ながら器が小さいな、と半ば呆れながらも精神をすり減らしつつ彼の家の戸を叩いた。

「はい」
おや。彼の声ではない。女の声だった。しかも若く、よく落ち着いている。
またしても私は彼に妬心を燃やすはめになった。
「…どなたでしょうか」
戸がからりと開き中から顔を覗かせたのは、随分若く見える美人だった。暗い玄関先に白い顔が浮いて見える。藍色か、青か。暗くてよく見えないが仕立てのいい着物をきちんと着ている。長い髪は上げることをせず胸元に垂れていた。
しっとりと濡れた瞳がゆっくりと上がって私を捉える。吸い込まれるほどの瞳だ。
私は失語症のように口を何度か開け閉めした後、我に返り一瞬真っ白になった頭を素早く動かす。
「た、立花暁の学友です。彼には連絡を入れていたのですが…ご在宅でしょうか。」
「嗚呼、彼の…伺っております。どうぞお上りくださいませ。」
私と同い年か、又は年下であろう彼女は軽く頭を下げると静々と奥座敷へと案内してくれた。
い草の匂いが強く香ってくる廊下を歩く中他の部屋は明かり一つなくぴったりと障子が閉まっており、まるで生活感がなくなかなか薄気味が悪い。あいつ、いい家だけど趣味は悪いな。と内心粗探しをしてしまう。しかし家は広々としていた。もうすでに雨戸が閉まっているので外の様子はわからないが地面にぶつかる雨の音がしてきた。とうとう降り出したようだ。

「こちらに。」
玄関から最も遠いと思われるその部屋は日本的な室内を急に破壊するような、木製の西洋風の扉がついていた。ご丁寧に装飾まで凝っていて色付きのガラスまではめ込まれている。洒落者の彼らしい趣味だと思った。
扉の前で呆れている私を他所に、彼女は音もなくどこかへ引っ込んでしまった。
それにしても、あんなに美人な女性を連れ込んでいるなんていい生活をしているものだ。変なところで自分の生活を振り返ってしまってキリがない。これでは埒があかないので、建前上二度ノックをしてからドアノブに手をかけた。
重苦しい音を立てて扉が開くと途端にそこは西洋文化になってしまった。重そうなデスクはアンティークだと一目でわかったし、赤い革張りのソファや古い大時計、本棚に至るまできっちりと統一されていた。食器棚や姿見まで完備されており、もうこの一部屋だけで生活できるのではないだろうか。
…それより肝心の本人はどこだ?
見渡す限り、人の姿はない。気配もない。どうしたものか。
狐につままれたような気持ちでおもむろにデスクに近づくと、一枚のメモがガラスのペーパーウェイトの下でひらめいていた。
『1時間外出する。待っていろ』
私に宛てたものなのか、それとも彼女に宛てたものなのか。いずれにせよ彼は今ここには居ないらしい。
夕方ごろ行くとしか言わなかった私も悪いのだが、来ると言っているのに外出する彼もどうなのだろうか。肩透かしを食らった気持ちになり、この悔しいが趣味のいい部屋を出ると、彼女がそこに居た。
「あの、彼…」
「外出中だったみたいです。待たせていただいても?」
「あ…勿論です。」
申し訳なさそうに目を伏せる彼女に心配無いと言わんばかりに微笑む。下心があるように見えてしまっただろうか、と急に不安になった。
彼女が通してくれた二つ目の部屋は彼の書斎?近くの客間らしき場所だった。
ここも妙に物が少ない。必要最低限の机と、座布団だけだ。これでは客も居づらいだろうに。まさしく
その客が今の僕で、もぞもぞと何処か落ち着きなく辺りを見回してしまう。
彼女の淹れてくれたお茶を啜り、天井の四隅に目をやってしまうが、その理由としては彼女が一向に出て行かないからだ。茶を入れてくれてから丸盆を抱きしめたままずっとそこに居る。
かといって何か話すわけでも無い。こちらから話を振れるほど私は口上手でも無いし、気さくなたちでもない。何を言ったらいいかもわからずひたすらに茶を啜っているがそれにも限界がある。息苦しくなった私がなんのあてもなく口を開こうとしたその瞬間、彼女が先に言葉を発した。

「誰かが居るのです」
静かに彼女が打ち明けたのは雨が細く降る夜だった。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。