僕だったなら

嗚呼、この電車は彼岸に向かっていくのだなあ。
「ほう」
匣の中から聲がした。 鈴でも転がすような声だった。
「聴こえましたか」
僕は目だけで様子をうかがった。
すると、男が言った。うんとも否とも答えなかった。真意が汲めなかったからだ。
「誰にも云はないでくださいまし」
僕の沈黙に構わず男はそういうと匣の蓋を持ち上げ、こちらに向けて中を見せた。
匣の中には縞麗な娘がぴったりと入っている。日本人形のような顔だ。
勿論善くできた人形に違いない。
人形の胸から上だけが匣に入っているのだろう。
何ともあどけない顔なので、つい微笑んでしまった。それを見ると匣の娘もにっこり笑って、「ほう、」といった。
ああ、生きている。そう、感じた。匣から、目が離せない。
「どちらへ行かれるのですか。」
なんとなく問いかける。
この列車は静かに田舎へと向かっている。車窓からはもう、ほとんど田畑しか見えない。
空いた窓の木枠が額縁のようだった。
男は、匣の蓋を閉めてその美しい顔を隠していく。視線が途切れる直前に娘は瞬きをした。
「二人で、旅をするのです」
何とも言えぬ優しげで切ない顔をして男は微笑んだ。
匣の娘は、と出かけた言葉を飲み込み、僕は「楽しんできてくださいまし」と当たり障りのないことを言った。
すると男は、まるで祝福された新郎かのごとき顔で嬉しそうに「ええ」と返事をした。
僕たちの会話は、それきりだった。
男は暫くしてから、何もない駅で軽く会釈してから下車した。
娘の入った匣を大切そうに背負って。
重さも何も感じさせない彼の動きといとおしそうな姿に胸が締め付けられたのだった。
僕は想像する。
地平線が見えるほどの遠く豊かな大地に男は立っている。
男の背負っている匣には綺麗な娘が入っている。
男は満ち足りて、どこまでも、どこまでも歩いて行く。
それでも僕は、何だか酷く—— 





匣という空間の中にぴったりと収まる娘の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
人なのか。
いや、人と呼んではいけないのだろうか。
匣の中の娘は、人を逸脱する美しさと魅力があった。
僕も、匣の中の娘が欲しい。
熱情にも似た思いが胸の中をこみあげてくる。
でもあの匣の娘は、あの男のものなのだ。どこへ行ってしまったのかさえ分からないのだ。
それなら。
僕が作ってしまえばいいのではないか。
まずは、匣がなくては始まらない。華美ではなくていい。
娘が際立つような、黒檀でできたしっとりとした素材がいい。
中には花を入れてやろう。娘の周りは花で埋めてやりたい。
開く蓋は、金色の取っ手をつけてしまうのがいい。開いた匣の中から、娘が覗いている。
男の娘とは違う容姿の、僕の理想とする娘がいい。
しかし、それは現実で出会うことはできないだろう。
娘まで作ってしまえばいい。
幸い、知人に人形師がいる。彼女に頼めば、造形を教えてくれるだろうし、石膏も分けてくれるだろう。
頭の中でどんどん組みあがっていく。
僕も、匣の中の娘がほしい。
しかし、人形を匣に閉じ込めてしまったら決定的に違うことがある。
人形だと、「生きていない」。
嗚呼、それではだめだ。
かといって人間を箱に入れるというのも出来やしないだろう。
何せあの娘は、腕も下半身もない、顔と胸だけの状態だったのだから。
では、なぜあの娘は生きていたんだろう。
つい先ほどの出来事だったというのに、数年前の記憶かのように突然色あせてくる。
僕は一体、何を見ていたのだろうか。
長い間列車に乗っていたせいで見た夢か。または幻覚か。
現実に足を引っ張られてはあの男に出会ったことさえも嘘だったかのように思えてくる。
僕は。
でも例え想像だったとしても、夢だったとしても、僕は彼女の声は鮮明に覚えている。
「ほう」
ああ、何だか酷く、男が羨ましくなってしまった。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。