10:ドミナントセブン
光陰矢の如しとは良く言ったものだ。
れおも響紀も新しい仕事でバタバタしていたのでいつの間にか1ヶ月が過ぎていた。
暦上はもう秋だというのに、うだる暑さは変わらない。
その一ヶ月の間、れおは珍しく必要以上の幼児退行をしなかったと思う。
響紀が仕事で外へ出ることが多かったというのに出かける頻度も少なく、寂しいという回数も少なかった。
理由は明白だ。
慣れないジャズの演奏が不安でひたすらベースの練習をしていたからだ。
響紀からしたらありがたい。れおが出かけてしまっているのではないかと余計な気をもまなくて済む。
自宅の仕事部屋で作業をしているとリビングからベースの音が聞こえてくる。響紀はそれが幸せだった。
――いつもこうならいいんだけどな。
そんなことを思うが、煮詰まってぐったりしているれおを見ると心配にもなる。
譜読みを初めてすぐの頃は自信なさげにしていたが、本番が近くになるにつれてれおはいつも通りの明るさを取り戻していった。
「ごめん、今日会議入ったからライブ間に合わないかも」
ハムエッグトーストをかじっているれおにキッチンから声をかける。
「え!やだ」
「どうしても外せなかった。できるだけ早く切り上げるから」
今日はれおが助っ人で演奏するジャズバーのライブだ。
れおの久々のステージをどうしても見に行きたかったが、急ぎの会議を馬淵たちと行わなければならなくなってしまった。
時間をずらそうにも、自分たちだけの問題ではない。プロデューサーの諸戸や他のチームも関わっていることなのでどうしようもない。
「うん‥‥‥」
もっと駄々をこねるかと思ったが、案外素直に頷いた。
しかし、れおの顔は不安でいっぱいだ。
一度見に行くといった手前、罪悪感が込み上げてくる。
洗い物の手を止めてれおの隣に座った。
「きょーじ、ごめんって。そんな顔すんな」
「んー」
もぐもぐと口を動かしながられおは上目で響紀を見る。
響紀はれおの柔らかい髪に触れた。
「お前なら大丈夫だって。あんなに練習してたんだから良い演奏できるよ」
「う~」
寂しそうなれおの顔を見て、今すぐにでも仕事をキャンセルしたい衝動にかられた。
いや、しかしどうにか1時間だけ早く切り上げられればどうにかなる。
頭の中で計算しながら、あえてそれはれおに言わないことにした。
変に期待させて結局行けなかったら、と考えたからだ。
「緊張してんの?」
髪に触れた手に、れおが頬を擦りつけてくる。猫のようだ。
「ん~まあそれなりに」
れおの柔らかい頬を指でなぞると、くすぐったそうにした。
「大丈夫だろ。応援してる」
響紀は愛おしくなってそのおでこに口づけを落とした。
会議を終えた響紀が時計を見る。19時。ギリギリ滑り込めそうだ。
馬淵たちへのあいさつもそこそこにアポロンレコーズの本社をあとにして急ぐ。
雨が降っていたのか、地面は濡れている。
この時間の渋谷は人が多い。学生や会社帰りの人間でごった返している。
上手く人の間を縫うように移動するが、思うように進まない。
響紀は大通りを避けて裏道から向かうことにした。
れおが今日演奏するジャズバーは渋谷から表参道の方へ向かったところにあった。
タクシーを使うか迷ったが、歩けない距離ではない。
人が少なくなった裏道からスマホアプリに表示されている目的地へ向かった。
れおから特に連絡は来ていない。緊張してそれどころじゃないか、バンドメンバーのおじさんたちに話かけられてそんな暇もないかのどちらかだろう。
地図に表示されたそこへ到着した。
モダンな入口のジャズバーだ。どこかレトロな雰囲気も醸し出しており、ドアを引くとカラン、とベルが鳴った。
バーといってもステージにこだわりがあるらしく、思っていたよりも音響設備もステージの作りもしている。
近づいてきたバーテンがステージのある1階のカウンター席に案内した。
ステージの上は吹き抜け構造になっており、よく見たら2階席もあるらしい。
客席も30席ほどで、ほとんどの席にサラリーマンやOLが座っていた。年齢層はばらけている印象だ。
れおは告知をほとんどしていなかったというのに、一番ステージに近いテーブルにはハングオーバー時代のファンが座っていた。
がやがやとした店内の照明が落ちる。
壇上にスーツをきっちり着た初老の男性が現れ、客席に向かって一礼する。
「皆様本日はようこそおいで下さいました。本日演奏に来てくださったのは『ドミナントセブン』の皆さんです。ごゆっくりとお楽しみください」
手短な挨拶を終えて、男性がはけた。
観客からの拍手を受けながらバンドメンバーが袖から顔を覗かせていく。
思っていたより年齢層の高い紳士たちの間に、目立つピンクの頭が見えた。
0コメント