換骨奪胎
少し、巽さんの髪が伸びた。
年の瀬。バタバタと忙しく、数日顔を合わせなかっただけだというのに巽に会った灰賀はそんなことを思った。
この人も生きているんだな、と当たり前のことを当たり前のように思った。
神谷巽が髪を金色に染めてからもう1年が経とうとしている。
仕事で関わった未亡人から姿を隠すために、なけなしのイメージチェンジをしたのだ。
髪の色を変えたくらいで人間は変わらない。流石に彼も分かっているだろう。
巽は髪色を変えて、自分の気持ちにも整理をつけたのだと、濤川が言っていた。
人の感情に敏感な濤川がそう言うなら、きっとそうなのだろう。
珍しく襟ぐりの開いた服を着た巽の後頭部を眺める。ゆっくりと視線を落として、白い頸から覗く龍の刺青の一部を凝視した。
結局、背中の龍を見せてもらっていない。
いや、見せるものでもないからそういう機会が無いのは当然のことだ。
灰賀も、自分の刺青を誰かに見せることは無い。そういうものなのだ。
「灰ちゃんは忘年会行くの?」
不意に振り向いて、巽が少しだけ背の高い灰賀を見た。
灰賀は首を傾げる。
「行く必要ありますか?」
「でたでた~灰ちゃんの悪い癖!行ったら楽しいよ」
灰賀のマイペースな返答に巽が貼りついた笑みを浮かべる。
「‥‥‥巽さんが行くなら行きます」
灰賀は漆黒の瞳でじっと巽を見つめた。一瞬の間があいて、巽が目をそらす。
「えー、そうなの?灰ちゃんがみんなと仲良くなるために一肌脱ぐかあ」
いつもそうだ。そうやっていつもはぐらかされる。
灰賀の本心をとらえているのか、何かに勘づいているのかはわからないが、掴もうとすると巽はするりと躱していく。
灰賀はそれが少しだけ気に入らなかった。
「巽さんが来いって言うなら行きます」
「わかったよ、じゃあ灰ちゃんも忘年会は参加ね」
苦笑いをしながら巽が言った。
そういえば、去年もこんなことがあった気がする。
ふと去年の出来事を思い出して灰賀は再び巽を見た。
巽が見つめていた先に居た、あの青年。組で嬉しそうに電話をかけていた相手もあの青年だろう。
無性に気になる。しかし、聞く気にはならない。
「じゃあ今日は帰ろっか、お疲れ」
巽に言われて我に返る。いつの間にか寮の方まで歩いてきていたらしい。
「お疲れ様です」
踵を返した巽の背中に深く頭を下げ、その姿が見えなくなるまで見つめていた。
暖房器具が壊れた灰賀の部屋は、冬場放っておくと0℃を下回る。
組の人間にいえば直してくれるのだろうけれど、別に困らないのでそのままにしている。
築50年近いオンボロの寮は6畳一間、簡素なキッチンが申し訳程度にくっついていた。
木造なのもあって、夏は暑く冬は寒い。トラックが目の前の道を通れば部屋は揺れる。
こだわりもなく、人よりも温度変化を感じにくい灰賀はそこに住んでいる。
他の組員は2ヶ月で嫌になって出てしまうというのに、灰賀は2年ほどその寮で暮らしていた。
持ち物は最低限のものしかない。
私服が数枚と、寝巻と、スーツが2着。部屋の中には布団が一枚。趣味のものなどはほとんど置いていない。というか、趣味がない。
凝り性でもあり多趣味な濤川には「独房だ」と揶揄されるが、あながち間違いではないと思う。
そんな部屋の中に入り、服を脱ぐ。壁にかかった温度計は1桁を指していた。
適当に落ちていたスウェットに着替え、煎餅布団に横になった。
天井の木目を眺めながら考えたのは巽のことだった。
巽に言われて買った財布を手繰り寄せて、カード入れに入れた小さな証明写真を引っ張り出す。
いつだっただろうか。高校で噂を聞いて、図書室にある卒業アルバムから切り抜いたのだった。
3-A神谷巽。
今より少しだけ幼い顔の巽が、水色のスクリーンをバックに微笑んでいる。
何故、神谷巽に執着しているのかは自分でもわからない。周りはこれを忠誠と捉えているが、そんな綺麗な感情ではないような気がしている。
小さな証明写真を摘まんで天井に掲げる。古い電灯の明かりが少しだけ眩しい。
――どんな顔をするのだろう。
髪の伸びた巽の後ろ姿を思い出した。
出会った時よりも少し細くなった頸に手をかけたら。無理に背中の龍を見たら。
勿論そんなことはしないけれど、でも、どんな顔をするのかがたまらなく気になる。
この欲求が爆発してしまった時が、きっと自分の終わりの時だろう。
だがもう少し、巽を見ていたい。だから、我慢しなければいけない。
灰賀はそんなことを思った。この感情は、一体何と呼ばれるべきものなのか、灰賀にはわからない。
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