弧光灯に

「道雄さん、今日休みなんでしょ」

僕は久しぶりに呼び出した相手に向かって、シーツの海から話しかけた。

大きな窓から差し込む朝日が眩しい。昨晩の情事が幻だったかのように、爽やかな朝だ。

その人は窓辺に座って、何やらぼんやりとしていた。

彼が朝7時には必ず目が覚めてしまうことを知っていたし、朝には先にベッドを抜け出して僕を起こさないように身支度をすることもわかっていた。

身支度して、ホテルの宿泊料金だけ置いてどこかに消えてしまうこともあったし、今朝のように窓の外を眺めていることもある。

「うん。休みだよ」

物憂げな表情をさっと消し、柔らかな笑みを僕に向けた。

僕は、彼が「道雄さん」じゃないことも知っている。だけれど彼は本当の名前を教えてくれないから、道雄さんと呼ぶしかない。

「何考えていたの」

道雄さんとは随分長い付き合いになる。ほとんどは僕が寂しさに耐えられなくなって、道雄さんを呼び出す。大抵の場合、道雄さんはすぐに飛んできてくれた。

都合の良い相手だと思っているわけではない。

道雄さんは僕の知る中で一番美しいひとだった。

そんな人が僕のわがままを聞いてくれる。愛されていると思いたくて、僕は、彼が断らないのを良いことに好き勝手に振り回した。

「乱歩の小説をね、思い出してたんだよ」

世間的にも端正だと評価される顔が僕に向いた。

優しそうに垂れた目尻が、僕にはたまらなく映る。

「乱歩?」

「知ってるだろう、江戸川乱歩」

大理石のテーブルに置かれた水のコップを軽く傾けて、道雄さんの喉仏が上下した。

僕は少しだけ考えたふりをする。

「あぁ、えっと、乱歩」

「ふふ、その様子だと知らないみたいだね」

悪戯っぽく笑うと、道雄さんが立ち上がって、室内にあるミニバーへ向かう。水を汲んで、僕のベッドサイドへ置いた。

「ごめんなさい、わからなかった」

道雄さんが置いてくれたコップに手を伸ばし、口に含む。冷たい水が喉を伝っていくのが寝ぼけた身体には心地よかった。

「孤島の鬼という小説が好きでね。何せ、僕と同じ名前の男が出てくるんだよ」

ベッドに腰掛けて道雄さんは僕の髪を撫でた。

大きな手が優しく僕の頬まで降りてくる。

「道雄さん?」

「そう。諸戸道雄」

ああ、そうだ。道雄さんの苗字は、諸戸というのだった。

それはどうやら本名であるらしく、僕が唯一知る彼の真実でもあった。

「諸戸はね、蓑浦という美しい青年にずっと焦がれているんだよ」

道雄さんの低い声が優しくそういった。

「きっと一目惚れだったんだろうね、彼に」

そう言われて僕は、道雄さんに初めて声をかけられた日のことを思い出した。

確か会員制のクラブだったと思う。何度か出入りして顔見知りが増えてきて、僕も何か特別な人間になったかのような気になっていた時、クラブの中でも特に目立つ道雄さんに声をかけてもらって嬉しかったのを覚えている。

こんな綺麗な男の人がいるのかとさえ思ったほどだ。

道雄さんと、そういう仲になるのに時間はかからなかった。

初めの頃はこの人をもっと知りたいと思って本当の名前や職業を聞き出そうとしたが、道雄さんは答えてくれなかったし、この人の秘密主義を尊重する「聞き分けの良い子」でありたいと思ったから、それももうやめた。

いつかベッドの中で、道雄さんが「同じ子を抱くことはあまりないんだよ」と笑ったことがあった。

その時僕は、道雄さんと何度も会っているような仲だった。

打ち明けてくれたその言葉が嬉しくて、僕はこの人に少しでも特別な感情を抱いてもらえているのが心の支えだった。

「恋の話なの?」

「いや。ミステリーだよ」

子供をあやすように道雄さんは語る。

「殺人事件の話だし、少しグロテスクなところもあるんだけど、僕はどうにもその諸戸っていう人物に親近感が湧いちゃってね」

少しだけ気恥ずかしそうに微笑む道雄さんは、初めて聞く楽しそうな声をしていた。

僕は道雄さんをからかいたくなった。

「それで、蓑浦と諸戸の恋は実るの?」

「いや、残念ながら」

道雄さんは肩をすくめた。

「ふ〜ん。現実では実ってるでしょ?」

ふふふ、と僕は悪戯っぽく目を細めた。道雄さんが、そうだね、とか、確かに現実の今は実っているね、なんてことを言ってくれることを期待しながら。

しかし、僕の予想に反して道雄さんは一瞬驚いた顔をして、困ったように眉を下げた。

「残念ながら、現実でも蓑浦君は諸戸の気持ちに応えてくれてないよ」

その顔を見て、僕は虚しくなった。

なんて恥ずかしい思い違いをしたんだろう。

僕は蓑浦じゃなかったのだ。道雄さんにとって。

彼にとっての特別な誰かは、僕以外の誰からしい。

カッと頬が熱くなったが、急速に血の気が引いていく。僕は、道雄さんにとって何なのだろう。

「......蓑浦がいるの」

やっとのことで絞り出した言葉で道雄さんはやっと僕を見た。

「いるよ」

僕に向ける熱を帯びた瞳ではなく、遠くを見ているときの寂しそうな色の瞳だった。

ベッドの上で僕に向けられる熱は、きっと僕ではなく僕の向こうにいる蓑浦に向けられていたのだろう。

「そう」

うまい言葉が見つからない。道雄さんはいつの間にか僕の頬から手を離していた。

ーー僕じゃだめなの。

つい口に出そうになった言葉を飲み込み、僕はシーツの中に体を埋めた。

道雄さんは、そんなことを言ったら、きっと2度と会ってくれなくなる。長い付き合いでそのくらいわかっていた。

道雄さんの特別になりたいけれど、なろうとしてもう会えなくなるなら、ならなくて良い。

僕はこの人にいっときでも愛されていればそれで良いのだった。

「じゃあ、僕といる時は僕を蓑浦だと思ってよ」

「ずるいこと言うんだね」

優しく笑った道雄さんが、僕の唇に唇を重ねた。ベッドが沈んでいく。

僕自身に向けられた訳ではない熱なのに、分かっているのに、それでも僕は嬉しいと思ってしまう。こんな自分が虚しくなる。

ねえ道雄さん。いつか貴方の本当の名前を僕に教えてね。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。