7:ルバート・セクション

「パパ~久しぶり」

鉄製のドアを開けてれおは声をかける。

「おう」

鍵を開けてくれた父の髪が短くなっていた。肩くらいまであった髪が耳が見えるほどになっている。

少しだけ驚いたが、別にわざわざ触れるほどではなかったのでれおは特に何も言わなかった。

高円寺のそこそこ広めの木造アパート。木造なのに楽器を演奏していて怒られないかという質問について父が答えたことはない。

短大を卒業するまで父と共に暮らした家に、久々に帰ってきた。

靴が散乱する玄関でまごついていると挨拶もそこそこに父はリビングの奥へと引っ込んでいく。

「なあ京司。お前さ、ジャズ興味ない?」

れおが少し遅れて入ると、見慣れない髪型の父がベースの弦を張りかえながらそう問いかけてきた。

れおはお土産代わりに持たされた響紀お手製のスコーンを鞄から出しながら部屋の奥にいる父に答える。キッチンには料理に必要のないものが多くて、土産のタッパーをどこに置くかで少し迷った。

「んー聞くのは好きだけどやったことはないよ」

「そっかー、俺の知り合いのジャズバンドのベースがさ、怪我して入院になっちゃって。1か月後のライブに間に合わないって言うんで助っ人探してるんだよ。どうせなら若めのベーシストがいいとか言っててさ。お前どうかなって思ったんだけど。今フリーだろ?」

「フリーだけど、弾けるかなあ」

冷蔵庫にしまおうと思ったが、響紀が特に冷やさなくていいと言っていたのを思い出した。

父の方を見る。

「人助けだと思ってやってみてくれよ~」

「う~ん」

口ではちょっと渋っているが、父にこんな風に話を持ち掛けられるのは嬉しい。

しかも、音楽のことで。

断る理由もないし、久々にステージに立つのも良いかもしれない。

「いいよ。あんまり自信ないけど…」

「何言ってんだよ俺の息子なら平気だろ~」

「え~」

冗談めかした父の言葉に照れながらくたびれたソファに腰を下ろす。

「どういう感じなの?」

「王道のジャズバンドだよ。でも今回はステージって言うよりディナーショーみたいなところらしいから割りと緩め。1曲だけどうしてもウッドベースがいいってところがあるらしいから頑張れよ」

「え!?ウッドベース?先に言ってよ!」

完全に後から出された情報に目を丸くする。

「撤回は無しだからな!平気平気、俺も弾けるしお前もいけるよ」

少し騙されたような気もする。

父は楽観的だ。知らない環境で初めての楽器を弾くのは怖い。

「不安...」

「最悪他のメンバーがカバーしてくれるよ。スタ練でしかウッドは練習できないっぽいけど頑張れよ」

れおにそう言って笑いかけ、蓮司は弦を張り終えたベースを立てかける。

「もーパパそういうところあるんだからあ」

「わはは、いいだろ!」

高らかに笑いながら立ち上がってキッチンの方へ向かう。

れおが置いたタッパーを見つけたらしい。

「お、なに、彼女?手作りじゃん」

「響紀が作ってた」

「響紀くんか、あの子なんでもできるじゃん」

「俺が食べたいって言ったら作ってくれた」

「甘やかされてんなぁ」

そう言ってタッパーに入ったスコーンをちぎって口に放り込む。

「うまっ」

雑多なキッチンには似合わないおしゃれな味がした。

「そういえばお前さ、俺が髪切ったの気づかないの?」

もごもごとスコーンを食べながら父が聞いてくる。

れおは肩をすくめた。



「〜ってことがあってさ」

実家に帰っていたれおが戻ってくるや否や父親からジャズバンドに誘われたこと、ウッドベースを弾かなければいけないことを話してきた。

「へーいいじゃん。ウッドベース。俺も聞きに行こうかな」

れおが別のバンドで活動する、ということに対して僅かに胸が痛む。期間限定ではあるし、自分がとやかく言える立場ではないとわかっているので余計なことは言わない。

それに彼の父親からの紹介であれば下手な心配はしなくても良いだろう。

「響紀来る?だったらマジでやんなきゃ〜」

「俺が行かなくてもマジでやれよ」

「ちゃんとやるよ!」

れおはなんだかんだで人見知りをする。若者同士であれば特に問題はなさそうなのだが、年上の中で活動するとなると不安は残るのだろう。

手放しに喜んでいないのはそういう理由もありそうだ。

ウッドベースに関しては、れおなら大丈夫だろう。

響紀は、れおの演奏スキルに対して絶大な信頼を寄せている。

「おじさんばっかりらしくてさ〜俺場違いじゃないかな?」

「でも若い風が欲しいんだろ向こうも。蓮司さんが声かけてくれたんだし自信持てよ」

響紀はキッチンの換気扇の下へ行き、煙草を咥えた。

換気扇のスイッチを入れると、音を立て始める。

ソファから顔を出してれおは響紀を見た。

「あのね‥‥‥」

そこでれおは言葉を切り、少しだけ目を泳がせる。

言葉を待っているが、なかなか言い出さない。

「どうしたの」

何か言いにくいことでもあるのだろうか。

思案してから、れおがはにかむ。

「‥‥‥パパが珍しくそういう風に言ってくれたの、嬉しかった」

可愛い、と反射的に声を出しそうになって飲み込む。

「よかったじゃん」

照れくさそうに笑っているれおにそう声をかけた。

煙草の煙がゆっくりと換気扇の中に吸い込まれていく。

「じゃあ結構忙しくなるのか」

「明日顔合わせ行ってくるよ〜、緊張する」

れおが再びベースを弾くのは嬉しいが、一緒にいる時間が減ると思うと少しだけ寂しい。

しかしそんなことは口が裂けても言えない。

短くなった煙草を灰皿代わりのジャム瓶に押し付けて換気扇を切る。ごうんと音を立ててからすぐに沈黙した。

「頑張れよ」

キッチンからソファに戻って、れおの頭を撫でる。

「うん!」

れおは微笑んで響紀の肩に甘えるように頭を寄せた。



「キンチョ〜」

「平気だよ。いつも通りニコニコしてろ」

11時。玄関にいるれおに声をかけた。

煙草の煙がゆらゆらと玄関のドアの方へ向かっていく。

れおはいつものような派手なピンクの服ではなくて少し落ち着いた黒の襟付きのシャツを着ている。パンツは緩めだけれどちゃんとした印象を受けるものを履いていた。

多分メンバーの男性たちは全く気にしないだろうけれど、一応第一印象は気にした方がいいと思って響紀が選んだ服だ。

硬すぎず緩すぎず、ジャズを好んでいる初老男性に嫌な顔をされないような服を選んだつもりだ。

れおは自分の体ほどのサイズのベースを背負い直し、つま先の丸い可愛い形の革靴を履いた。

「ん!いってきます」

いつもより少しだけ凛々しい顔をしてれおが響紀を見上げる。

「おう、いってらっしゃい」

響紀は玄関の壁にもたれかかって目下でぽわぽわ跳ねるピンクの髪を見た。軽く煙草の煙を吐き出す。

「......」

なぜか一向に出て行かないれおを見て響紀は首を傾げる。

「何?行かないの?」

「.....して」

「は?」

「行ってらっしゃいのちゅーして!!」

「...は?」

予想だにしていなかった言葉に目を丸くすると同時に可愛いと思ってしまう自分もいる。

湧き出る様々な感情を押し込めて、玄関先にいるれおに近づいた。

身をかがめて、軽く唇に触れるだけのキスをした。

「ん!いってくる!」

満足したのか、いつものような花の笑顔を見せて玄関の向こうへ消えていく。

バタン、とドアが閉まると同時に響紀は煙草の煙を吐き出した。

「‥‥‥可愛すぎるだろ」

最近そう思う回数が増えてきて、困った。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。