00:2011年高円寺スモーキングブルース
あずさと別れてから4年ほど経った。
あずさ名義で借りていた部屋に転がり込んでいたので、蓮司が出ていった。
蓮司今、高円寺のライブハウスの横にあるボロアパートに住んでいる。
あれは京司が小学生になる年のことだ。
蓮司が仕事のことで忙しくなったのと、あずさが別に男を作ったのが別れた主な理由だ。
お互いの関係は冷めきっていたと思う。
入籍自体もしていない、ふわふわした内縁関係だったこともあり、別れ際に揉めることはなかった。
京司が生まれてから籍を入れるか、なんて話を出したこともあったがお互い固まった仕事もしていなかったし、そういう結婚とか戸籍とかに縛られるのを嫌ってずるずるとただ同居だけをしている状態だった。2人の間に子供がいるだけ、という期間が長かった。
あずさから子供の養育費を要求され、まあそのくらいならいいかと月に5万円払い、自由気ままに、やりたいことをしながら生活している。
あずさから請求されている金額が一般的に見て高いのか安いのか、蓮司は分かっていない。
子供が生まれた時は、嬉しかった。自分が父親になるのかと不安にもなったが、それでも産声を上げた京司は愛おしいと思った。
でも、徐々にあずさと折り合いが悪くなっていった。
自分なりに息子の為にも、と思って仕事を増やしていたのだが、京司のことで色々と言われることが増えた。
蓮司は徐々に家に帰る頻度が減っていった。ダメな父親だと思う。
父親になる器ではないと自覚して、言い訳して、ひたすら夢を追いかけた。
高円寺に小さなライブハウスと楽器屋を友達と共同経営して、多少安定して来たと思った矢先、あずさが浮気をしている事が発覚した。
浮気に対して怒りの感情などはわかなかったが、もう一緒にはいられない。
別れを切り出すと、あずさは一方的に京司の親権は自分がとると言い、蓮司はそれを承諾した。
4年の間、ライブハウスを大きくしたりバンド活動が活発になったりしたのもあって、蓮司の頭からは、元妻と息子のことなどすっかり抜け落ちていた。
しかし、今になって突然あずさから連絡が来た。
春先のことだった。
「蓮司?あのさー、金かしてくれない?」
「は?なんだよいきなり」
「京司もでかくなって金かかんの」
久しぶり、の一言もなくそんなことを言ってきて、相変わらず常識のない女だなという言葉を飲み込んだ。
「なににかかるんだよ」
「習い事とかぁ?」
嘘くさい、と思いながらもおぼろげになってしまった息子の顔を思い浮かべた。
「なにやらせるの?ピアノ?」
「えー野球とか?」
間延びした声がめんどくさい、と言わんばかりに受話器から漏れてくる。
男と一緒にいるのか、遠くからあずさを呼ぶ声が聞こえ、「今電話中だからぁ」とその声に隠そうともせず返事をしている。
「あっそ。いくら?」
「やった!3万くらい~」
「ん、まあそんくらいならいいわ。京司元気?」
「超元気、やばいよ、あはは」
適当にあしらうような語尾でそう言うあずさの向こうで、男が「あっちいけよ」という声が聞こえる。そのあとに、何かが床に落ちる音。続いて男がけたけたと笑う声。
蓮司は僅かに違和感を覚えながら、まあ、それなりに幸せにやっているだろうと思って、口座に振り込むことを伝えて電話を切った。
次に電話がかかってきたら、息子の声くらいは聞かせてもらおう。
そんなことを考えて、そのままライブハウスの手伝いに向かった。
あずさから次の電話がかかってくるのに、時間はかからなかった。
金を振り込んでから2週間後に再び携帯電話に表示された名前に、蓮司は眉をひそめる。
こんな短期間で、しかもこんな朝っぱらから。
一瞬迷ってから、携帯を耳にあてた。
「なに」
「あ~、ごめん蓮司!普通に金貸して」
「んだよ。仕事してねえの?」
「してるけど、不景気であんまり稼ぎなくてさ」
あずさは新宿でキャバ嬢をしている。そこそこ美人だから、ナンバーワンまではいかなくてもそれなりに稼げているはずだ。
元妻の浪費癖の事を思い出しながら蓮司はため息を吐いた。
「無駄な買い物してんじゃねーの」
「ちがうって。ってか、子供に金がかかるの。蓮司にはわかんないだろうけどさ」
あずさの言葉に少しだけムッとした。
「わかんねーけど。そういや、京司元気?声くらい聞かせろよ」
「は?今更父親ヅラしてんの?ウケる」
「いいだろ、そんくらい。声聞いたら金払ってやるよ」
「あ、まじ?」
面倒くさそうだった態度は一変し、あずさが遠くに声をかける。
「きょーじ、起きて」
部屋を移動しているのか、あずさが歩いている気配がする。
「起きろって言ってんだろ」
小学校低学年の子供に使う言葉とは思えない乱暴な言葉を投げかけるあずさに、蓮司の胸の中の靄が大きくなった。
「早くしろよ!」
パシッという乾いた音がして、子供の泣き声が聞こえる。
「あー、泣くなって。はい、あんたのお父さん。早く出て」
あずさが無理矢理受話器を京司に渡したのだろう、泣く声が近くなった。
「お、おい、京司」
名前を呼ぶと、泣く声が小さくなり、しゃくりをあげている。
「京司、元気か」
「…パパ?」
「そうそう。…学校行ってるか?」
声を聞かせろとはいったものの、何を話したらいいのかわからない。とりあえず、ありきたりなことを言って、父親面するのが恥ずかしくなってきた。
「行ってるって言え」
「いってる」
横で小さくあずさが耳打ちしている声が聞こえる。本当にこの女は馬鹿だな、と思いながら気づいていないふりをする。
「楽しいか?」
「…楽しくない」
か細い声に自分の方が苦しくなってきた。
「どうした?京司大丈夫か」
「あ、蓮司ごめん!そろそろ出勤しなきゃだから切るわ!お金よろしく!5万くらい!」
慌てたあずさの声が割り込んできたかと思えば、乱暴に切られた。
蓮司は考えられる最悪の事態を思い浮かべて、すぐ頭を振って追い出した。
いくら馬鹿な女とはいえ、自分の子供にそんなことするわけがない。一度は愛してしまった女を、悪く思いたくない気持ちもあったのかもしれない。
「虐待じゃねえの」
心の中の靄を話した親友の大吾は、デリカシーなくそう言い放った。
ライブハウスも、楽器屋も一緒に経営している幼馴染だ。彼は結婚もしていて、子供もいる。
いわゆる、まっとうな人生を歩んでいる人間に意見を求めたら、考えていた最悪の事態を示唆されてしまった。
「証拠がないんだよ」
深夜0時。行きつけのバーの片隅で、ウイスキーをロックで傾ける。
薄っすらとかかったブルースが一層店内の哀愁を際立たせていた。
いつもなら、大吾とこの曲は誰の曲だとかそういう話でわあわあ言うのだが、今日はそうはいかない。
京司のか細く寂しそうな声と、泣き声が耳の奥からなかなか消えてくれないのだ。
ひとりで考えていてもどうしようもないと思って、大吾に話を切り出した。
大吾には自分の状況や人間関係をほとんどといっていいほど語っている。
あずさとのことも、勿論話していた。
「だとしても、手遅れになる前にどうにかした方がいいと思うけど」
大吾はスーツの胸ポケットからセッターを取り出して火をつける。
その動きにつられて、蓮司もアメスピに火をつけた。
「今更俺が出ていってどうにかなるもんかな」
「なるだろ。京司くん引き取れよ。子供可愛いぜ」
「うーん」
蓮司には自信がなかった。今から息子を引き取るにしても、どうしたらいいかわからない。
どのくらいお金がかかるのかもわからないし、どういう風に育てたらいいのかなんて、尚更わからない。
「あずさちゃん、正直そういうDV気質あったじゃん。このまま放っておいて京司くんに何かあったらお前後悔するんじゃねえの」
「するとは思うけど、育てられる自信がない」
「んなもん引き取ってから考えようぜ」
他人事だと思って、と思ったが、大吾は元々こういうタイプだった。
行動した後に何か考える。でも結局それで成功しているのだから隅に置けない。
「んー、もう少し様子見しようかなあ」
京司のことは心配だったが、自信のなさと金銭面、自分の仕事のこと、証拠の無さで踏み切ることは出来なかった。
それから、蓮司の方から連絡をする頻度が増えた。
あずさは面倒くさそうに電話に出るが、そのたびに金を無心する。
ちょうどいい金づるとしか思っていなさそうなところが癪に障った。
電話口で京司に替わってもらい、話をしながら、もう10歳になる息子の言語がおぼつかないことに違和感を覚えた。
簡単な受け答えと、単語ごとしか喋らない。態度もおどおどしていて、話し始めの言葉がいつも詰まってしまう。
4年前はどちらかというと快活に話していたと思う。
不安がどんどん大きくなる。京司と一度でいいから会いたいと話すと、あずさはあからさまに不機嫌になって電話を切る。
蓮司の疑念はどんどん色濃くなっていった。
子供というものに少しだけ触れてみたい、と思って大吾の家の息子と会ったこともあった。
息子は、小学2年生だというのに電話口での京司の様子と比べて明朗だった。
あの京司の様子はやはりおかしいのではないか。
そんな日が続き、あずさの自宅がある練馬の方に用ができた日のことだ。
ライブの打ち合わせを終えて、京司のことも気にかかるのであずさの家の近くを通りがかった。
アパートまで押し掛けるのは流石に憚られ、昔京司を連れて行った公園へ赴いた。
日は傾き、影を長く伸ばしている。
小さなアパートがいくつか立ち並ぶ路地を歩き、懐かしい風景を眺めていた。
蓮司の横を、小学生らしい子供たちがボールを抱えて通り過ぎていく。
「あいつまたいたよ」
「汚い服着てて可哀そうだよなー」
「いつも夜までいるんだぜ」
そんな会話を耳にしながら、公園内に目を向けた。
そこまで広くない公園の中で、ブランコに乗った影がぽつりとある。
目を凝らしてみて、はっとした。
京司だ。
辺りを見回し、あずさがいないことを確認してから、ゆっくりと近づいていく。
京司の輪郭がはっきりと見えてくるにつれて、4年前に別れたときよりもずっと痩せていることに気づいた。
それに、着てる服もボロボロだ。髪のツヤもなく、肌も薄汚れている。
「京司」
その声に、京司が顔を上げる。
「パパ…?」
大きな瞳がますます大きく見開かれていく。その目に、みるみるうちに涙がたまっていく。
その顔を見て、思わず駆け寄って抱きしめた。
「パパぁ」
京司を抱きしめて、その細さに驚いた。最後に会った時よりも細くなっているのではないか。
4年前から殆ど成長していない息子の身体が、痛々しい。
泣きじゃくる京司を胸に抱きながら、自分の嫌な予感が次々と的中していることに動揺した。
少なくとも、そんな女じゃないと思っていたのに。
ツヤのない髪を撫でてやりながら、小さな息子を強く抱きしめる。
声を押し殺しながら泣く京司の気持ちを考えて、悲しくなった。
しばらくそうしていると、徐々に京司の呼吸が落ち着いてくる。
頭を撫でながら、蓮司はゆっくりと言葉を選んだ。
「なあ京司、正直に答えてくれ。お前、飯食ってるのか」
「…うん」
京司は考えてから、首を縦に振った。
「今日は?今日は何か食べたか?」
「あ、あさ、パンたべた」
「朝?昼は?」
「た、たべてない」
「ママがくれないのか?」
「……」
京司は黙り込んでしまった。
下唇を噛んでいる。
「ママは遊んでくれるか?」
「…ううん」
また、少しだけ京司が考えてから首を振る。
「遊んでくれない?」
「ママ、ママのかれしとしかあそばない」
たどたどしくそう言うと、京司は蓮司の胸に再び顔をうずめた。
「学校は?」
「お、おかねかかるからいかないでっていったの」
「家でなにしてるんだ?」
「じっとしてる。‥‥‥うるさくするとママおこるから」
京司の小さな手が、蓮司の服を握りしめる。
めくれた袖から覗いた肌に、青いあざがあるのが見えた。
「京司、この怪我、どうしたんだ」
思わず腕をとって、ぶかぶかの長袖をまくり上げる。
無数のあざが痛々しく浮かび上がり、京司はわずかに顔を痛そうにゆがめた。
「ぼ、ぼくが、わるいこだから」
「ママか?ママが叩くのか?」
「ママもだけど、ママのかれしも」
蓮司は生まれて初めて頭に血が昇る感覚を味わった。
今すぐ怒鳴り込んであずさも、その彼氏も泣いて謝るまでぶん殴ってやりたい。
「で、でもね、ぼくがわるいの、うるさくしちゃうから!いいこにしてたらママやさしいよ」
蓮司が怒っているのに気づいたのか、京司が明るく繕うように言う。
怯えさせてしまったのかもしれない。幼い子供が怒りにここまで敏感になっている事実が痛々しくて、蓮司は悔しくなった。
少し前の、勝手に幸せに暮らしているだろうと決めつけていた自分が恥ずかしい。
「なあ京司、パパと暮らさないか」
「え」
思わず口から出た言葉に、自分でも驚いた。
京司もきょとんとした顔をして見上げている。
「で、でも。ママが…」
「ママはいいんだ。京司はどうなんだ」
「わ、わかんないよ」
それきり黙り込んでしまった。難しいことを急に言ってしまったかもしれない。
気づけば、もうすっかり辺りは暗くなっていた。ぽつりぽつりと街頭の光と住宅街の窓の光が蛍のようだ。
「‥‥‥ぱ、パパはたたかない?」
小さい声で、京司が聞く。
「叩かないよ」
「パンだけじゃない?」
「肉だって米だってなんでも食わせてやる」
「が、がっこうは?」
「京司が行きたいなら行かせる」
「‥‥‥じゃ、じゃあパパが良い‥‥‥」
服に顔をうずめながら、か細く京司が言った。
蓮司は胸がいっぱいになった。
「京司、京司。ごめんなあ、気づいてやれなくて。絶対お前のことは俺が守るからな」
「ぱ、パパ」
京司の肩が震える。
その時、視界が真っ白に染まった。
「なにやってるのかなー」
車のライトと懐中電灯に照らされて、蓮司は目を細める。
気づけば、目の前に警察官とあずさが立っていた。
「京司!」
わざとらしくあずさが京司に駆け寄り、蓮司から引き剝がした。
「京司どこ行ってたの、危ないでしょ」
京司は不安そうに蓮司を見上げている。
警察官の蓮司を見る目が明らかに怪しいものを見る目で腹が立つ。
「お兄さんはなにしてたのかなー」
「この子は息子で」
「別れた夫です!今更なにしにきたの」
あずさが間に入ってきて、警察官に必死に説明している。
「あーなるほどねー」
「俺は京司に会いに来ただけだけど」
蓮司がギロリと警察官を睨みつけた。
「勝手に来ないでよ、親権はあたしにあるんだけど?」
「あ?ちゃんと母親の仕事もしてねえで何が親権だよ!京司連れて帰るからな」
「はぁ?4年間連絡も寄越さなかったくせに父親ヅラすんなっての」
「ストップストップ。お父さんもお母さんも熱くならないで。いい?お父さん、親権があるってことは勝手に家に連れて帰ったりしちゃダメなんだよ。お母さんもお母さんで、お子さんこんな時間に一人で歩かせちゃ駄目だよ」
「でも京司は」
「お父さん。今ここでごねてもね、どうにもならないんだよ。それともこのまま警察署に行くかい?」
初老の警察官にそう言われて、蓮司は黙り込んでしまった。
「おまわりさん、ありがとうございました。さ、京司帰ろっか」
あずさの圧の強い声に、京司は何も言えなくなってしまったようだ。
派手なネイルの手で腕を掴まれた京司が、何度も振り返りながら引きずられていくのを、蓮司はただ黙ってみているしかなかった。
「子供のことは母親に任せておけば大丈夫だよ」
微笑みながらいらないアドバイスをしてくる警察官を殴らなかった事を褒めてもらいたいと思った。
翌日、蓮司は大吾を呼び出し、経緯を説明した。
「ひっで、やるなら徹底的にやるしかねえよ。蓮司、お前金っていくら出せる?」
「いくらでも出すわ」
「OK、じゃあさ、弁護士入れよう。親権取らない事には始まんないからさ。そうなると俺らだけじゃできないから、プロに相談するしかない」
「弁護士のあてなんかないよ」
「いい人いるんだよ。今からその人の事務所行こう」
こういうところは本当に頼りになるなあ、と他人事のように思った。
「橘法律事務所所長の橘愛子です。よろしくお願い致します」
黒髪をびちっとひとつにまとめた、つり目の美人が出てきたときはどうしようかと思った。
明らかに仕事ができるタイプの女性だ。蓮司は今まで関わったことのないタイプの女だ。
橘弁護士はTシャツにジーパン姿の蓮司とスーツの大吾を一瞥してから自己紹介をした。
初めて入る法律事務所にビクビクしながら、目の前の美人に萎縮した蓮司は大吾に助けを求める。
「橘さん、お世話になっております。お久しぶりです。今回は友人が相談したいってことで…」
「如月蓮司と申します」
急に振られて、蓮司が頭を下げる。
「如月様ですね。本日はどのようなご用件でしょうか」
てきぱきとした口調でそう言い、じっと蓮司の目を見つめた。
全てを見透かすような目だったが、不思議と嫌ではない。
蓮司は事のあらましをできるだけ丁寧に語った。親権は母親が持っていること、息子が虐待されていること、どうにか自分の方に取り戻したいこと。
橘弁護士は、適度に相槌をはさみ、適度に質問を投げかけながらしっかりと話を聞いてくれた。
その時点で、蓮司は彼女を信頼していい人だと確信した。
昨日の京司との会話をできるだけ詳しく説明し終わり、安堵のため息を吐いてから、蓮司はぎょっとした。
橘弁護士がハンカチで目元を抑えていたからだ。
「ごめんなさい、あまりにも可哀想で…同じ母親として許せません。如月さん、親権絶対取りましょう」
蓮司の視線に気づいた橘弁護士がはっとし、背筋を伸ばした。
蓮司は彼女の瞳の奥に、めらめらと燃え上がるものがある気がして、心強かった。
一刻も早く京司をあずさの元から取り戻したかったが、どうしても強行突破は出来ないらしい。手順を踏まなければ蓮司の立場が悪くなるという。
その間に京司がまた殴られていたら、と思うと居ても立っても居られない。
爆発的に行動することが多かった蓮司はそれがもどかしく感じつつ、淡々と証拠を集めていく橘弁護士の手腕に驚いていた。
「児童相談所に相談しておきました。今日南瀬あずささんのお宅に伺うそうです。あまりにも状態がひどいようであれば一時的に預かることも出来るとのことです。気休めにしかなりませんから、早急に手続きを進めましょう」
蓮司の不安を察したのか、橘弁護士が言った。
「あ、ありがとうございます」
「いえ、これも仕事のうちです。さて、お話を聞いたり、調査をさせていただいたりしましたが、現状況ですと如月さん側が有利です。虐待の客観的証拠や放置の証拠も抑えられています。後は相手の方に合意を頂ければ確実ですね。家庭裁判所に申し立てを行いましょう。もうすぐですよ」
彼女の言葉に光が見えた気がした。
橘弁護士には特に言わず、自分で行動を起こしたことが一つだけある。
「あずさに絶対合意させたい」
そういって蓮司は練馬のアパートの戸を叩き、あずさに親権変更の話をした。
あずさは抵抗した。彼女は何をもって京司にそこまで執着しているのか、蓮司にはわからない。虐待するくらいなら手放した方がいいのではないのか。
無理矢理書かせても良かったが、それでは何されるかわからない。
下手に出て、何度か頭を下げて、最終手段として金をちらつかせた。
何年も一緒にいた女だ。大体のことはわかってるつもりだ。
あずさは目先の欲に弱い。
「初めから京司で金引っ張ろうと思ってただけだし、そんくらいくれんならもう子供いらないわ」
札束をみて喜んでいるあずさに、もうなんの感情も湧かない。
「裁判終わったら渡してやる。それまではビタ一文も渡さない」
もしものこともあるので一筆書かせてから、合意書にサインさせた。
「合意したのですか」
親権争いが泥沼化すると思っていたのか、橘弁護士は合意書にサインしたあずさに驚いていた。
家庭裁判所での調停が終わったのは、夏前のことだった。
あずさが欠席した場合、調停が長引く予定だったが、彼女は約束通り姿を現した。あずさの態度も受け答えも不遜だったせいもあり、裁判所が蓮司に親権変更を認めるであろうことは明確だった。
「橘弁護士、本当にありがとうございました」
最後に支払いを行い、事務所を出るときに彼女に頭を下げる。
「当たり前のことをしたまでです。私にも、京司くんと同い年の息子がいますので」
そう言って微笑む彼女が、蓮司には神様のように見えた。
大吾のジープを借りて、練馬に乗り込んだ。
あずさはもう京司のことなどどうでもよくなっているようで、玄関まで見送りにも来なかった。約束の金を雑に放って、悪趣味なヒョウ柄のベッドの上にいるあずさを一瞥した。
勝手に部屋の中を漁るが、ボロボロのリュックサックひとつだけで京司の荷物はほとんどない。
「じゃあな。もう俺らに関わるなよ」
「あたしも、顔も見たくねーよ」
化粧も落とさずに寝たのだろう。マスカラが目の下にびっしりついている。
煙草を吸いながら悪態をつくあずさを無視して、蓮司は京司の手を握ってジープに乗せた。
「京司、今日からパパと2人暮らしだな」
「‥‥‥うん」
「腹減ったなあ、何食いたい?」
「わかんない」
「なんだよそれ。じゃあマックでも食いに行くかあ」
「‥‥‥うん」
「げ、まだ朝マックの時間か。俺ポテト普通の方が好きなんだよな」
「ぼ、ぼくわかんない」
「あれ、食ったことないんだっけ?じゃあ朝マックもありだな」
「う、うん」
「よし、じゃあマックにしよう」
「た、たのしみ」
ハンドルを握りながらちらりと助手席に座った京司を見る。視線に気づいた京司も父を見上げて、ぎこちなく笑った。
「腹一杯食わせてやるからな」
出そうになった涙を堪えて頭を撫でようとすると、京司が一瞬体を強張らせる。
それが悲しくて悔しかったが、そのまま髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
手を上げてもこれからは叩かれるんじゃなくて撫でてもらえるって思うようにしてあげたいと思った。
カーラジオからはB.B.Kingの「The Thrill Is Gone」が流れていた。
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「お母さん、なに?」
家に帰るや否や突然抱きしめられて、響紀は戸惑った。
「仕事でひと段落ついたの。ひびを久々に抱きしめたいなって思って」
仕事詰めの母からそんなことを言われて、どうしたら良いかわからない。
「急にどうしたの。俺そんなガキじゃないけど」
「そうだねえ、もう小学校4年生だもんね」
「そうだけど。仕事辛かったの」
一丁前に大人びてそんな風に慰めようとしてくる息子の成長に、愛子は少し驚いた。
「辛かったわけじゃないよ。ちゃんとひびのこともママ大事にしたいなって思ったの」
「は?疲れてんじゃねーの。早く寝なよ」
「ふふふ、照れてるの、優しいなひびは」
別に、照れ隠しでつっけんどんな態度になったわけじゃない、と響紀は自分に言い訳をした。
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