5:メイビー

れおは食パンを食べない。

しっかりトーストにして手を加えれば食べられるのだが、ジャムを塗っただけのふわふわの食パンが食べられない。

あまり自分のことを話さないれおが、ぽつりと食パンが嫌いだと話してくれたのは高校の時だっただろうか。

屋上で横並びになってお昼を食べているときだったと思う。

「んー、あんまり好きじゃないんだよね。昔それしか食べてなかったから」

昼休み、ランチパックをかじっていた響紀が1枚勧めると、珍しくれおが断わった。

不思議に思って響紀は片眉を上げる。

スナック菓子やスティックパンを分けると喜んで食べるというのに。

「なんで」

れおが話したいなら、話してくれるだろうと思ってその先を待つ。

染めたてのピンク色の前髪を軽くいじって、れおがちらりと響紀の顔色をうかがう。

響紀は、その大きな目をじっと見つめた。

「ひびきなら知ってると思うけど、パパの所来るまで俺お母さんの所いたじゃん」

「うん」

「毎週月曜日にね、ぽんって食パンの袋渡されるの。あの、8枚入りのやつ」

れおが目を伏せる。

「それ食べてろって言われるの」

昔のことを思い出したのか、れおが膝を抱えた。

「…足りなくね」

少し思案して、やっと絞り出した言葉があまりに呑気で稚拙だったので、響紀は自分で自分が嫌になった。

「足りないけどさ~」

その先の言葉を言い淀む。膝を抱える手に力が入っている。

「なんもないんだもん、他に」

お母さんに言ってもダメなの、とか、家に食べ物なかったの、とか色々聞きたい言葉が脳裏に過ったが、言ってどうにかなる母親だったらそもそも食パンだけを渡してきたりなどしないだろう。

自分が育ってきた、親に何でも言える環境が当たり前ではないのだ。高慢になるつもりはないが、想像するだけでれおの中にある淋しさや孤独は簡単にほぐれないと思う。

「京司」

言葉が見つからない。小さく名前を呼ぶと、れおの背中が丸くなった。

「ずっとそれだけだったからさ~食パン、トラウマ」

ふふふ、と力なく笑って、れおは大きく伸びをした。

両手を高く上げて大きく息を吸い込んで、そのまま響紀の膝の上に倒れ込んでくる。

膝枕のような形になって、響紀はれおの顔を覗き込んだ。

「でもね、ちょっとくらいなら食べられるようになったんだよ」

暗い話をしてしまった、と思ったのだろうか。

努めて明るく笑ったれおが痛々しくて愛おしくて、身をかがめて口づけを落とした。

少しだけ驚いた顔をしたれおだが、すぐに受け入れる。

「いちごジャム?甘いね」

れおが柔らかく笑う。

高校3年の、春だったと思う。


小学4年で転校して来たれおは、襟元のだるだるに伸びたTシャツと、裾がつんつるてんのズボンを履いていた。

後から聞けば、父親が母親のネグレクトに気づいて無理矢理れおを自分の家に連れてきて、不慣れながらもどうにか小学校の転入手続きをしてバタついているうちに服のことなどすっかり頭から抜け落ちてしまっていたらしい。

家賃の支払いも忘れてしまうような男だったのに、必死になって学校を探して、どうにか入学金を捻出して、それでれおを学校に送り出したところで、「あれ、服ボロボロじゃね?」と気付いたという。

れおの父親は、明るくて大胆で不器用な、昔ながらのロックンローラーだ。

生粋の趣味人であるのに、可哀そうな息子の話を聞いて元嫁の家まで友人のジープで乗り込んで行く親心はあるらしい。

自分の世界を持っている男であるがゆえに度々れおを放置することはあったものの、愛情をもって接していたらしく、れおは父親のことが大好きだ。

「パパね、俺がベース弾くの嬉しいんだって」

楽器を始めたきっかけを話していた時、れおはそんな風に言って笑った。

授業参観や体育祭などに来ることはなかったが、初めてれおがバンドでベースを弾くという文化祭には来てくれた。

「へったくそなスラップしやがってよぉ」

舞台裏に顔を出したときに、そう悪態つきながら号泣していたが、れおが来るや否や「帰る」と言ってさっさと帰るほどの不器用な父親を、れおは大切にしている。

たらればの話をしてしまったらキリがないのだが、れおの父親がれおの異変に気づいていなかったら、と思うと恐ろしい。

「あいつ、飯食わないんだよ。食べたいとかも言わなくてさ。給食って食べてる?」

高円寺のアパートの一室、れおがトイレに行っている間に。友達のような口調でれおの父親からこっそりこう聞かれたことがある。

「食べてますよ」

「マジ?ならいいんだけどさ。家だとなんか食うかって聞いても要らないって言うんだよ。パンとか買い置きしてあるの食っていいよって言うんだけど」

響紀は少しだけ考える。

「一緒に食べたいんじゃないですか?蓮司さんと」

「えー、そんな繊細か!?まあ、誘ってみるか…」

クラスの女子みたいな照れ方してるな、と響紀は思った。

「響紀くん、いつもありがとね、あいつが女の子だったら君の嫁さんに貰って欲しいくらいだわ」

そういってけたけた笑った。

別に男でももらうけど、と思ったが口には出さないことにした。

中学2年の、夏だったと思う。


ぼんやり脳裏に思い出されたふたつの記憶で、響紀はハムを切る手を止めた。

Youtubeで動画を見ていたら何となく作りたくなって、ミックスサンドウィッチを作っている。

作ったとしても、れおが食べてくれなければあまり意味がないので、このまま別のメニューに変えるか悩んだ。

自分もあまり柔らかいパンが好きではないせいもあって、無意識のうちに食パンを避けていたので今のれおが食べられるかどうか定かではない。

――わざわざ聞くのもな。

れおは今モデルのバイトに出かけている。友人のアパレルショップの着用モデルだそうだ。

昼前には撮影が終わって帰ってくるというので、昼食を用意しているわけだが、メニューチョイスを間違えたか。

システムキッチンの前で腕を組んで具材を見下ろす。

「ただいま~」

玄関が開く音がし、明るい声が聞こえてくる。

思っていたよりも早い。

摺りガラスの向こうにピンク色のシルエットが見えたかと思えば、扉が開いて、れおの顔が覗く。

「早くね」

「俺が可愛いから撮影が順調だった~」

冗談めかしながらそう言って、荷物がほとんど入らないような小さな斜めかけバッグをソファに置いた。

「ご飯何~?あ、サンドイッチ!」

カウンター越しに身を乗り出して響紀の手元を覗き込み、れおが嬉しそうに言った。

「食えるっけ」

それとなく聞いてみる。

「うん、すき~ひびきのやつ、おいしいもん」

胸をなでおろす。よかった。

「じゃあこのまま作るわ。手洗ってきて」

「はーい」

良い返事をしてれおが背中を向け、部屋を出ていく。

その背中を見ながら、再びハムをスライスし、ストップしていた思考をまとめていく。

ドアの向こうから、れおが手を洗っている水音が聞こえる。それが止まり、続いて、とたとたと軽い足音が近づいてきた。

白と黒の部屋にピンクの色が増える。

「お腹空いた~」

目を細めながら猫のようにそっと近づいてくるれおに、愛おしさが込み上げてくる。

れおの悲しい想い出を、少しでも上書きできたらな、と思うのは高慢だろうか。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。