3:The Heartbreaking of a Hangover

アンコールの曲を終え、会場の熱気は最高潮に達し、それと同時に泡沫のような淋しさを見せている。

狭い箱の中にこれでもかというほど観客が押し寄せて、今までにない盛り上がりを見せた。

これが最後、と会場に居た誰もが胸の内で噛み締めていたのだろう。

Hangoverのファン層は、珍しく男女問わない。

各メンバーそれぞれに個性があるから、男女どちらの客入りもあるのだろう。

それもあり、会場内には男女両方のファンがひしめき合っている。

会場が明るくなり、照らされた観客の顔は笑顔と涙が入り混じっている。

れおのファンと思われる地雷系の女の子たちは肩を揺らして泣いている子の方が多かった。

男性ファンで涙を流している人も少なくはない。

勿論、純粋に楽しそうな笑顔を浮かべている人もいた。

皮肉なことに、ワンマンライブでは過去最高の客数だった。

「ハグオバサイコー!」

「れおぴまた帰ってきてね!!」

「れおくんがいないとかむりぃぃいいい」

様々な声が聞こえてくる。それぞれが思いのたけを口に出している。

今日は、初期メンバーかつベースの如月れおの卒業ライブだった。

全てのセットリストを終え、ドラムスティックを持った手をおろす。響紀はれおを見た。

逆光になっていたせいで、表情は見えなかった。

「みんなありがとー!れおもありがと、サイコー!」

マイクを握った颯がそう締めて、メンバーが頭を下げた。

珍しく理一も涙ぐんでいて、颯は号泣してからアンコールまでには立ち直っていたくらいだ。

響紀は、泣けなかった。淋しさがあるのは間違いない。でも、実感がわかなかった。

明日からバンドにれおがいない。考えられなくて、涙が出なかった。

舞台裏に撤収しても観客の拍手と声援は止まない。

それほど最高の卒業ライブだった。

舞台袖でやっと響紀はれおの顔を見ることができた。泣いているのか、笑っているのか、どちらだろう。ライブは大成功と言ってもいいだろうし、喜んでいれば良いのだけれど。

観客の声援を背にしているというのに、れおの顔には何も浮かんでいなかった。


ライブから2日後。れおにメッセージを送っても既読すらつかなかった。

打ち上げには参加していたものの、どこか心ここにあらずといった雰囲気で響紀は嫌な予感がしていた。理一にも颯にも連絡はないという。

急ぎではない仕事を後回しにして響紀は、阿佐ヶ谷にあるれおのアパートへやってきた。

近くのスーパーで購入した適当な食材をぶら下げて道を急いだ。

日は既に傾きかけている。

住宅街の中にある6部屋しかないボロアパートの一室がれおの住居だ。

カンカンと鉄製の階段を登り、合鍵を出す前に古びた鉄のドアへ、何となく手をかけてみる。

ギィ、と軋む音を立てながら開いてしまった。

不用心すぎる。

「京司、流石に鍵はかけろよ――」

薄暗い玄関で散乱した靴を揃えてやりながら声をかけるが返事がない。

玄関入ってすぐの廊下に備え付けられているキッチンには灰皿代わりになっている酒の缶が所狭しと並べられていた。その横に、食材の入ったビニール袋を置く。

胸騒ぎがする。

軋む床板を踏みしめながら、ピンク色の小物だらけの部屋へ向かう。

「…京司」

部屋の隅にあるベッドに寄りかかったまま、れおが虚ろな目を向けた。

体中が弛緩している。こちらに目を向けたが、きっと上手く認識できていないだろう。

「大丈夫かよ」

床に乱雑に置かれた楽譜や雑誌をよけて響紀はれおに近づく。

れおがライブの後にこうなってしまうことは毎度のことだったが、今回は多分、訳が違う。

響紀は床にしゃがみ込み、れおの肩を軽く揺すった。

「おい、京司、京司」

何度も名前を呼ぶ。

お前は、舞台上にいる「れお」じゃない、如月京司だ。

ハイになっているのか、ダウンしているのかはた目からは分からないトび方をれおはする。

その度にれおを「元に戻す」のは響紀にしかできない。

「京司」

柔らかなピンク色の髪を撫でた時、れおの焦点が合ってくる。

「…響紀」

今回は特に戻るのが遅い。その理由は分かっている。

「なんで響紀がそんな悲しそうな顔してるの」

れおが困ったように笑う。響紀にそんな自覚はなかった。

「ごめんね響紀。俺が悪いから」

そんなことない、と言いかけてやめた。れおはそう言って欲しいわけじゃないからだ。

響紀は黙って、言葉を紡ごうとするれおを見つめた。

「俺が言えたことじゃないけどさ、俺もっとみんなと演奏したかったなあ」

れおの頬に涙が一筋流れた。

「でもさ、全部俺が悪いから、こんなこと誰にも言えないよね」

「京司」

名前を呼んで、抱きしめる。

言葉が見つからない。黙ってれおを抱きしめることしかできない自分に腹が立った。


「たぬき見た、れおやべーじゃん」

スマホを操作しながら颯が話題を振ってきた。

ファンの交流が目的と言いつつ暴露や悪口を書かれることの方が多い掲示板を、練習の合間に見ていたようだ。

「まーたそんなモノ見て」

リーダーの理一が颯の手からスマホを取り上げる。

眼鏡の奥の目が細くなった。

「れおさぁ、マジでファンと会うなよ」

「だって会わないと死ぬって言われるんだよ」

ベースの手入れをしていたれおが顔を上げる。甘えたような顔をみて理一は首を振った。

「そういうこと言う子は大体死なないから平気なんだよ」

「そーそー、ただでさえれおのファンはメンヘラ多いんだからエサ撒くな」

颯が理一からスマホを取り返して言う。

「でもリスカの写真とか送られてきたらさ~心配になっちゃうじゃん」

「うわ、チョロすぎ」

正直れおはお人好しで変に優しいところがある。それが残念なことに妙なファンにバレて簡単に繋がれる、ヤレるとまで思われているのだ。

ホイホイ会いに行くれおにも問題があるが、そうやってれおを手玉に取ろうとするファンにも、響紀は苛立ちを覚えていた。

「とりあえず、もうしばらくは連絡もしないで。過激なファンはマジで何するかわかんないんだから」

理一の言う事は最もだ。響紀もその言葉にうなずいた。

「既にもう掲示板じゃ喧嘩になってるけどね」

颯がそう言いながら最新の投稿を見せてくる。

数名のファンがれおのお気に入りは誰かという事でもめているようだった。

「どれどれ…『てめえ特定した、次のライブで殺してやるからな』『れおは渡さないから殺してみて』『剃刀持参』『れお好きすぎて殺したい』…あ~これやばくない?」

「は、マジそんなことになってるの」

達観していた響紀ではあったが、流石に不穏な投稿への不安を隠せない。

「ライブは明後日だぞ、ちょっと当日持ち物検査とかしようか」

理一は昼間公務員をしているだけあって、頼りになる。

すぐにライブハウス側に連絡するといって練習室を出ていった。

「ファン同士で刺し合うとか流石にないよね…?」

不安そうな顔でれおが響紀を見る。

「絶対ないとは言い切れない。お前のファン行動力あるし」

「どうしよ、俺のせいで誰かが怪我するとかやだよ~」

「…当日は荷物検査とか、ちょっと警備員増やしてもらうとかするからそこまで気にするな」

今にも泣きそうなれおの頭を撫でる。

「急にイチャイチャすんな~」

颯がのんきに茶化していると、理一が戻ってきた。

「オーナーに話したら手荷物検査くらいはできるって。その辺もちゃんと告知して牽制しようか」

この日の練習は、どこか不安を残しつつ解散となった。


ライブ当日。手荷物検査で特に引っかかる人間もおらず、いつものように幕が上がった。

不安な気持ちは拭いきれなかったが、それでも良い対バンだっただろう。

アンコールも終わり、メンバーにもほっと安堵の空気が流れていた。

「いやー、まじでどうなるかと思ったけどよかったな~」

「ごめんね、みんな不安にさせちゃって」

「別にれおのせいじゃないよ」

そんなことを言いながらライブハウスを後にしようとしたとき。

「れおは私のものだけど!?」

女の金切り声が聞こえた。

ライブハウスの前に人だかりができている。繁華街の真ん中にあるライブハウスのせいもあってすぐに人目についたようだ。メンバーは、遠目から足を止めてその様子を見た。

「ざけんじゃねえよブス、ライブのチケ外れて逆恨みかよ」

口論に発展しているようで、俗に言う地雷系の服を着た女の子2人が対峙していた。

「は?殺す殺す殺す」

片方は酒を飲んでいるようでどこか呂律の回らない口で捲し立てている。

不穏な言葉を口にした彼女は、徐に鞄からカッターを取り出した。

「やべぇ」

民衆もわずかにどよめくが止める勇気のあるものは居なかった。むしろスマートフォンで撮影をしている者もいる。

「ころすころすころす」

そう言って彼女はもう1人の女の子にカッターを振りかざした。

悲鳴が上がる。

女の子は腕から血を流している。

「マジかよ、京司見んな」

青くなって震えているれおを抱き寄せて響紀が言った。

「警察呼ぶ。颯は救急車呼んで」

冷静に理一がスマホを耳に当て、指示された颯も同じくスマホを操作した。

「俺のせいで、俺のせいで」

響紀の腕の中で、れおは震えが止まらない。

自分は悪いことをしたというつもりはなかったのに、結果的に誰かを傷つけていたのだろうか。

「マジで無理、れおに近づく女無理、つかれお以外無理なのに」

また悲鳴が聞こえた。女が、カッターで再び女の子を切りつけたらしい。

「あ?れおいんじゃん」

取り囲んでいた野次馬が散り散りになっていく。人の茂みがなくなったせいもあってか、目ざとく女がこちらを見ている。

響紀は冷たい汗が背中を伝っていくのを感じた。

「つかひびきさ、れおと距離近くない?あたしのれおに触んなよマジで」

血で染まったカッターを手にふらふらとこちらへ近づいてくる。

れおは真っ青な顔で、ほとんどパニック状態になっていた。

下手に逃げても逆効果だ。響紀は何も言わずにれおを抱きしめた。

「れおめっちゃビビってない?ウケるかわいすぎ」

ニヤニヤと嫌な笑みを女が浮かべた時、どかどかと足音が聞こえて女は視界から消えた。

通報を受けた警察官が到着し、彼女を地面にねじ伏せていたからだ。

いつの間にか呼吸を止めていたことに気づき、響紀は息を吐き出した。

腕の中のれおはまだ震えている。

「京司、大丈夫?」

その顔を見て、響紀はまた再び冷たい汗を流した。

れおの呼吸が浅い。いや、呼吸ができていない。軽く息を吐くことしかできていないようだった。

「颯、ビニール袋!」

思わず響紀が警察官の横にいた颯に叫んだ。

手に持っていたコンビニ袋から酒缶を取り出し、ビニール袋を響紀に渡す。

受け取ったビニール袋をれおの口元にあて、背中をさする。

れおは、朦朧とする意識の中倒れている血だらけの女の子のことが気がかりだった。


「俺、バンド辞める」

傷害沙汰があってからしばらくして、れおが外に出られるようになってすぐの練習中に、突然れおがそう言った。

「はぁ!?お前、あの事引きずってんの?あれれおのせいじゃねえだろ!」

颯が目を丸くしながられおの肩を掴んだ。

「そ、そうだよ。れおが悪いわけじゃないんだし…」

流石の理一も動揺したようで、なだめるように声をかけている。

響紀は、何も言わなかった。

「でも、ああいう子が今後絶対出てこないとは言い切れないし」

結局切りつけた女は警察に連れていかれて、そのあとのことは聞かされていない。ただ、ライブハウス出禁になったとは聞いた。

「ネットでも荒れてるし、俺がハグオバにいたら迷惑かかる」

オーバーサイズの服の裾を握りしめてれおが下唇を噛んだ。

「でもさあ、俺れおのベースじゃないとやだよぉ」

颯がれおの肩を揺さぶった。

「あの子、響紀のことも切ろうとしてた。みんなに何かあったら俺やだよ」

そう言われて、颯は黙った。

「れお、でもさ、ファンの子があんな風にならないように気を付けたらいいんだよこれから」

「ほんとはやだけど、俺辞めるってきめたから」

「れお…」

理一と颯は、まだ言葉を探している。

「京司がそう言ってるんだからいいんじゃね」

響紀の言葉に、理一も颯も目を丸くした。響紀が一番脱退に反対すると思っていたからだ。

「おい響紀まじか」

「こんな不安抱えたままこの先ずっとやっていくの、無理だろ」

青ざめて過呼吸になっているれおの姿がメンバーの脳裏をよぎった。れおは人一倍メンタルが弱い。この先ライブがあるごとにフラッシュバックしてしまうかもしれない。

「うん。みんな、今までありがとね」

れおの大きな瞳が潤んでいる。唇を噛み締めて、「ちょっとトイレ」と飛び出していった。

「一本吸ってくる」

それに続いて、響紀も出ていく。

「響紀のあの態度さぁ~…」

「颯。ああ見えて一番悔しいし悲しいのは響紀だから」

「だよなぁ…クソッ他に方法ねーのかよ」

防音室の壁を、颯が拳で叩いた。


腕の中でしゃくりを上げていたれおは少し落ち着いた。

呼吸が整ってきたれおの唇に口付けをすると、唇がいつもより乾燥している事に気づいた。

この様子じゃ、食事も水もろくに口にしていないのだろう。

「京司、なんか食べたいものある?」

れおは首を横に振る。

「じゃあ適当に作る」

いつものような艶が無くなっている髪を撫でて立ち上がるが、すぐ動きが止まる。

服の裾をれおが引っ張っていた。

こんな時だというのに、れおの挙動に愛おしいという感情が湧きあがるのは不謹慎だろうか。

「なに」

再びそばにしゃがみ込み、肌の上についた涙を拭ってやる。

また虚ろな目に戻ってしまったれおは小さく首を振った。

愛おしいような、寂しいような何とも言えない感情を誤魔化すように、響紀は再びれおの唇を奪う。

今度は舌を割り込ませて、深く求めた。このまま抱いてしまう方が慰みになるか、と過ったが、そんなことはしたくない。弱みに付け込むような真似はしたくなかった。

唇を離すと、れおは少しだけとろけた表情になった。

衝動を抑えながられおを抱き上げてベッドに寝かせる。

「すぐ作るから待ってて」

れおの額に唇を落とし、キッチンへ向かった。


少し焦げた、香ばしい醤油の香りがする。

ベッドから薄く目を開けてれおは響紀が立つキッチンの方を見た。

狭いキッチンで背中を丸めて料理をしている後ろ姿に、言い表せない安心感を覚える。

微睡の中で響紀が来てくれてよかった、と思った。

「できたよ」

以前響紀が買って置いていった皿に黄金色のチャーハンが盛られている。

食欲はなかったけれど、この匂いを嗅いだら少しだけお腹が空いたような気がした。

日はもう暮れて、窓の外はすっかり濃紺になっていた。

チャーハンを片手にごちゃごちゃと色々なものが置かれたローテーブルの上に場所を作って、皿を置く。

ベッドで横になっているれおも抱き起こし、そのまま自分に寄りかからせた。

れおはされるがまま、響紀の胸元に頭を寄せる。

響紀が腕を伸ばしてチャーハンの皿を取り、スプーンで掬ってれおの口元へ運ぶ。

「おいし」

少しだけれおの瞳に光が戻った。

「脱退したし、みんなに合わせる顔ないなあ」

チャーハンを飲み込んだれおがぽつりと呟く。

その口に再びスプーンを近づけ、食べさせながら響紀は少し思案した。

「別に誰もお前のこと嫌ってないよ。俺を含めて」

「んー会いにくいよ」

「そんなことない。メンバーは悔しがってる」

「そうなのかあ」

咀嚼しているれおの口元にスプーンを近づける。

「俺も」

言うか迷ったが、口に出すことにした。

「俺もお前のベースじゃないと叩く気起きねー」

れおが顔を上げる。響紀はれおの大きな目を見つめた。

「気が向いたら弾いてよ、俺の為に」

れおの瞳が大きく見開かれていく。それと同時に、その目が輝きを取り戻す。

「うん」

泣きそうな笑顔を見せて、れおは響紀の首に腕を回す。

「響紀、大好き」

いつもの調子の声音に安堵した。

取れかけのピンク色のカーテンから覗く月が、満月だった。

「…俺も」



小さく呟いた返事が、どういう意味を持つのか、京司は分かっていたのだろうか。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。