夜叉丸の恋12

頭上から射す日の光を受け、眩しそうに目を細めた。
金色の光を浴びて烏の濡れ羽色の髪が艶やかに光る。昔馴染みの、最愛の友とも言える同室の妖怪は、何処かへ出掛けている様だった。花の咲き乱れる中庭を縁側へと出て眺める。
花の香りがしただけで何かを期待してしまう自分がいる。
色とりどりの花々が良く見えるこの部屋を充てがわれた時から、もう自分の心の寄る処は決まっていたのかもしれない、と彼女は思った。山の風に乗って花々の輝かしい香りが毛倡妓を包み込んだ。
爽やかで優しい風が吹いた時、黒髪に華を添えていた天竺牡丹の髪飾りが空に舞う。
「あっ....」
喉奥から溜息に近い声が漏れる。
届くかわからないが咄嗟に手を伸ばし天竺牡丹を捕らえようとした。
しかし、小柄な彼女の手では触れることが出来ず、青い空へ赤い花が映えて見えた。
何処かやり切れない気持ちでその花を見つめ、悲しさが胸に影を落とす。紅い花を目で追った時、その花が、想い馳せていた葡萄色の髪が垂れる胸にぶつかった。
彼女は息を呑んだ。
気づけば、柔らかく薫っていた花の香りが強く肺腑へと流れ込んで来る。極楽浄土というものがあったのならこの様な香りがするのだろうとぼんやりと考えた。
「落としものだよ」
嗚呼。金色に塗られた爪の指先が柔らかく天竺牡丹を受け止め、白い掌にその花を咲かせた。
毛倡妓はゆっくりと視線を上げて、金色に輝く花の瞳を捉える。
花々を湛えたその鬼は、紅い唇の端を薄くあげて、柔らかく微笑んだ。
薄く瞬きをして返事と変える。上手く言葉が紡げなかったのだ。
しゃらり。
花和袈裟の先についた鈴を軽やかに鳴らしながら青い芝の上に朱月は足を滑らせる。じっとこちらを見つめているその黒髪の君へと近づく度、彼女の髪の美しさに目を奪われた。
彼女の立つ縁側の側まで来ると、地を蹴りまるで重力など無いかの如く彼女の横の縁側へと降り立った。
自分の胸ほどしか背の無い彼女は、今度は此方を見ずに庭へと目を向けている。
いじらしい様子にふっと抜ける笑みを漏らすと、手に持っていた天竺牡丹へ柔らかく触れるだけの口付けをし、其の儘彼女の黒髪へ差し込んだ。
耳の上に咲く牡丹の花を見れば満足そうに微笑み、彼女の髪を撫でようと手を伸ばしたが、少し思案した後すぐに手を下ろす。
「うん、この花はこの場所に咲くのが一番美しい」
目尻下げて春風の香りを纏いながら低く心地の良い声で囁く。毛倡妓は直視出来ずにやはり彼の胸元で揺れる花を見つめてしまった。
彼女が視線を下げてしまったのに気づいた朱月は、何処からともなく紫色の小さな花を彼女の前に差し出す。
その花に驚いて毛倡妓は顔をあげた。
「あはは、やっとこっちを向いてくれたね」
花よりも美しい笑顔が自分へと向けられていた。
急に恥ずかしくなって再び目を逸らそうとすると、その動作は封じられた。
朱月の指に挟まれた菫の花が唇に押し当てられたからだ。
微かに優しい香りがした。小さな花が笑っている様な気がした。
「ふふふ」
毛倡妓の驚いた顔があまりにも幼く見え益々嬉しそうに目を細めると、彼女の手にこの花を握らせた。
一歩身を引いて彼女との距離を置くと、屋敷の広間の方から皆の声が聞こえる。
「 鬼知るぞ 春のそよ風 揺らす髪 花の香りは 我が身なりけり 」
朱月は風に乗せてそう呟くと、花の香りと共に微笑んだ。
毛倡妓が歌を返そうとゆっくりと瞬きをすると、もう其処には朱の君の姿は無かった。
手に握った菫に目を落とす。可愛らしい色の花が無性に愛おしく感じた。
「 花の色は 夏来にけらし 朱の色と 紅の牡丹は 我が身なりけり 」
小さく聞こえていないであろう彼に歌を返すと、彼が触れた牡丹の花を揺らして部屋へと戻っていった。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。