夜叉丸の恋11
雨宿りに丁度良いのだ。
五月雨が細く降ると山は色を失った様に見える。花々はそれを喜んでいるのだが、人に近い身体を持つと雨は些か煩わしい。
着物が濡れてもすぐ乾かすことはできるが、それでは風情がない。自然は自然のままに、有るべき姿で有るのが正しいのだと思っている。
恵みの雨を受けるのは自分の神気を受ける植物たちで良いと、その神に近い鬼は考えていたのだ。
そういう言い訳で、この山をよく訪れていた。半分は口実で、もう半分はこの山の頭を見守る役目を自分に課していた。しかし、この鬼にとってもう一つ、山を訪れたいと思う理由が最近はできたのだった。
雨が山を灰色に映すと途端にひっそりと息を潜めた屋敷になる。雨の音で、外に音が漏れないだけなのかもしれないが。
なんだか元気のない様に見える屋敷へと今日もまた、立ち寄るのだった。
酒呑童子の庵は池の上に浮いている様に見える造りだ。池の水に跳ね返って雨音が強く響くその一室には、月を模った丸い窓が付いている。そこから音もなく降り立ち、厭な顔をする幼き姿をした美麗な鬼を見るのが好きだった。
今日も同じようにその窓からするりと室内に身を滑らせる。途端に雨音が遠くなった。
文机に向かっていた酒呑童子が顔を上げた。読んでいた書物の上につぅ、と形の良い脚が滑って視界を遮ったからだ。すぐにそれが朱月だと気づき顔をしかめる。
「ふふふ、笑う門には福来る、だよ。外道丸君」
酒呑童子の眼前に脚を出した朱月は窓に腰掛けて微笑んだ。着物を楽なように着崩しているので、脚は太腿から裾を割って肌を晒している。無駄な肉のない引き締まった脚を惜しげもなく酒呑童子の前へ出した。
「噛むぞ」
目の前に脚を出されていい気はしない。
頬を引きつらせながら酒呑は牙を剥いた。
「お好きに」
赤い唇の端から覗く鋭い犬歯にぞくりと身を震わせると、臆せずやってみろと言わんばかりに微笑む。
誘うような妙な雰囲気で、飄々と捉えどころのないこの神鬼に酒呑は呆れてものも言えない。そもそも、幼名で呼ぶのはやめろといつも言うのに、一向に止める気配がない。めんどくさそうにため息をつくと、朱月は腰をずらして脚を組んだ。
「引き篭もって本を読んでばかりなの、感心しないなぁ」
語尾を甘ったるく伸ばす癖が朱月にはある。平安時代の貴族と同じように雅さを気取っているのかもしれない。
「おれが自室で何していようとおれの勝手だ」
朱月の白い脚を片手でつかんで退けると、存在を無視して本に目線を戻そうとした。
しかしそれは降ってきた花が書物の上に落ちて遮られる。
「綺麗だろう」
朱月の掌からはらはらと花が舞う。
花弁もあれば額ごとのものもある。ふわりと書物の上に落ちた花を見ると酒呑童子は眉を潜めた。
「なんの真似だ」
「癒しだよ、外道丸君。眉間に皺が寄ってる」
低く怒りを押し殺した様な声にも動じず、手を伸ばして酒呑童子の眉間の皺を伸ばそうとするが、その手は酒呑童子によって払われて空を切った。朱月は頑固な酒呑童子を見つめて深く息を吐く。
酒呑童子の蜜色の目が朱月を睨みつけている。普通の妖怪であればこの目で一つも動けなくなるだろうが、朱月には効かなかった。
手応えの無い様子に呆れて酒呑童子が目を逸らした。
その時、唇にゆるりと弧を描いた朱月が酒呑童子の肩口を押して床に組み敷いた。
「釣れないじゃないか、外道丸君。」
酒呑童子の腹あたりに跨った朱月が目を細めて嗤う。酒呑童子は押し退けることもせず冷めた目で朱月を見上げた。
笑みを湛えたまま朱月が身を屈めて耳元に口を寄せる。
「こんな風に押し倒されたら、昔を思い出してしまうかい?ねぇ…」
自分の下で此方を見上げている酒呑童子の顎を金の爪の指先でなぞる。朱月の得も言われぬ色気に、男女問わずどれくらいの者が惑わされてきたのだろうか。
「…お前に構っている暇はない」
朱月の言葉に過去の記憶が一瞬蘇り、瞳が開かれる。心のどこかにまだ残っていた恐怖という感情をすぐさま押し殺して冷静さを取り戻し、近づいた朱月の肩を掴んで引く。
半回転して今度は朱月の身体を畳に押し付ける。朱月はおや、と意外に思いつつこの状況を心から楽しんでいた。葡萄色の髪がうねって畳に模様を描く。髪飾りの花が一輪、ぽとりと落ちた。
「昔のおれではない。今は、こうしてお前を下にも出来る」
形成逆転し朱月に跨る酒呑童子が見下しながら低く言った。劔よりも冷えた鋭い目をして、神鬼を今にも殺しそうだった。
刀の切っ尖を突きつけられているかの様な、命がびりびりと震えるこの状況に朱月はたまらないといった風で舌舐めずりをする。
「良いねえ、外道丸君。これでこそ鬼の棟梁だよぉ…どうする?この後の続きするかい?」
惚れ惚れした口振りで興奮を押し隠して呟く。
酒呑童子は大きくため息を吐くと朱月の上から退いた。
「いや、やめておこう」
「ちぇ、つまらないなあ」
あっさりと戦意を喪失した酒呑童子に朱月は舌打ちし、ごろりと反転してうつ伏せになり頬杖ついた。
朱月に背を向けた酒呑童子は文机に向かう。その背中が、もう相手にしないという空気を出していたので朱月はこれ以上揶揄うと、いよいよ追い出されるな、と思い花の香りを漂わせて立ち上がった。
「お屋敷に顔出すねぇ」
気配を捉えているはずだがこちらを向かない酒呑童子に向かって微笑みかけると、甘い匂いを残して音もなく部屋から去った。
朱月が居なくなったのを背中で感じると、落としていった花を拾い上げる。
室内に残った花の豊かな香りに酒呑童子は顔をしかめてため息をついた。
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