1:日進月歩
「お風呂入れて」
可愛い顔をして、れおが自分を見上げている。
橘響紀は玄関に立つ幼馴染の第一声を聞いて急に頭痛がしてきた。
時刻は深夜の2時。眉根を寄せてれおを見下ろすと、彼は唇を尖らせた。
「だから~お風呂貸してってば!」
この時間に大きな声を出してはいけない事を流石に理解しているのか、声を顰めてれおが響紀を見つめ返す。
「‥‥‥それは別にいいんだけど。なに?またガス止められたの?」
「そうだよ~」
ピンク色の髪を揺らして、首を傾げた。話の内容がこれじゃなければ、あまりにも可愛い仕草だ。
如月れおがこんな風に自宅を訪ねてくるのは今日が初めてじゃない。
1週間前はゴキブリが出たとかなんとかで数日間泊めたし、その前は水道を止められて響紀の家に転がり込んできた。
ここ最近だとその2件だが、もっとさかのぼればキリがない。
軽くため息を吐く。
「まあいいけど。‥‥‥しばらく泊まれば」
しかし、れおがこうやって頼ってくるのが自分だと思うと悪い気はしない。
れおのことを面倒見たい人間なんて山ほどいるというのに、差し伸べられた手を選ばずに自分の所へやってくる。12年間片思いしている相手に頼られるというのは、嬉しいものだ。
「泊まる!」
れおは、初めからそのつもりだったようで、待ってましたと言わんばかりに満面の笑みを見せた。よく見れば、黒い大きめのリュックサックを背負っている。
「はいはい、どうぞ」
半身を引いて部屋の中へ招き入れる動作をすると、れおはすぐに靴を脱いで慣れたようにリビングへの扉を開けて入っていく。
リビングはシックなモノトーンの家具で揃えられているというのに、所々に散りばめられたピンク色が目に刺さる。
泊まりに来るたびにれおが置いていく食玩具やアクセサリー、挙句の果てに勝手に買われたクッションなどが置かれているからだ。
必要最低限の家具しか置いていない中にあるそれらは、少し異質でもあるが、響紀は気にしていない。
響紀が人を自宅に招くことはほとんどない。
同じバンドのメンバーであっても渋々承知するというのに、れおだけは特別だった。
女性問題を理由にれおをバンドから脱退させたが、それでもまだこうして付き合いがある。
いや、むしろ現役の時よりも会う頻度は高くなっているかもしれない。
何故、と言われてしまうと難しい。好きだからと言えば、納得してもらえるだろうか。
「響紀、お腹すいた」
子供のように甘えた事を言う。れおじゃなければ、自分でコンビニにでも行ってこい、と突き放すだろう。
「なんか食う?」
リビングのソファに寝っ転がったれおを見ながら響紀はシステムキッチンに向かう。
「チャーハンかラーメンくらいしか作れねえわ」
黒いキッチン台の上に乗せたかごをガサガサと漁りつつ、れおに視線を送ると、「ラーメンがいい〜」と返ってくる。
「作っとくから先風呂入って」
「は〜い」
素直に返事をすると、れおはリュックから派手なピンクのパンツを取り出してそのまま風呂場へ消えていった。
片手鍋に水を入れ、IHコンロの電源をつける。
換気扇の下で煙草に火をつけると、深く吸い込んだ。
シャワーの音が聞こえ、風呂場で曲を聞いているのか、僅かに別の音も混じっている。
毎日こうなら良いのに、と思いながらぐつぐつと煮立った湯の中に乾麺を飛び込ませた。
「お風呂ありがと〜」
「‥‥‥風邪引くよ」
ピンクのパンツ1枚で出てきたれおを見て、響紀はすぐに視線をラーメンどんぶりに戻した。
目に毒、とはまさにこの事だ。別に裸を見た事がない訳でもないし、裸を見る以上のことをしているけれど、突然目に入ってしまうと動揺する。
「え〜暑いよ」
どんぶりにハムを乗せている響紀の後ろかられおが抱きつく。
風呂上がりのいい匂いがした。
「もうできたから」
理性の糸がジリジリと張り詰めていくのを感じる。我慢できるうちに、ラーメンを食べさせよう。
れおを退かしてどんぶりを2つ持ち、テーブルへと運んでいく。
カウンターのマグカップに差してある箸を二膳とってれおも続いた。
「わ〜、おいしそ」
一人暮らしだというのにどんぶりが2つ用意してあるのも、箸が二膳あるのも、れおがいつ来てもいいようにしてあるからだと本人は気づいているのだろうか。いや、れおに限ってそんな繊細なところに気づいているはずはないだろう。
ちゃんと手を合わせてかられおはラーメンを箸で掬って口に運んでいく。
同年代にしては幼く見えるのは彼の挙動のせいなのだろうか。それとも、童顔と言われる部類の顔立ちのせいなのだろうか。
響紀は、れおの家庭環境についてもよく知っていた。母親の恋人に虐待されていたことも、そこから父親に引き取られたことも、バンドマンの父はほとんど放任だったことも。
ひとり学校に遅くまで残って音楽室にいた背中をみて、幼いながらに自分がそばにいてあげたいと思ったのをよく覚えている。
自分の母親は、「かわいそうなおうちの子と仲良くしてあげてていい子だね」と言ったが、れおをかわいそうだと思ったことは一度も無い。ただ、寂しいのだと思う。
自分が一番近くでれおを見てきた自信がある。下手したら、れおの父親よりも一緒にいる時間は長いだろう。
だかられおがどれだけ甘えた事を言っても、わがまま言っても自分だけは聞いてあげようと思ってしまうのかもしれない。
「響紀食べないの?」
「ん、食うよ」
自分が作った食事をれおが美味しそうに食べている。それだけで満たされたような気になって、れおに声をかけられてから我に返った。
食卓に置いた胡椒を多めに振りかけてから口に運ぶ。懐かしい味がした。
初めてれおーー如月京司を見た時、雷が走ったようだった。そう、小2の夏、古びたCDショップの小さなラジカセから流れるレッチリのアルバムを聴いた時と同じ衝撃だ。
今思えば、一目惚れだったんだろう。
「如月京司です」
緊張を隠せない様子で紡がれた言葉の響きを、今でも覚えている。小学4年の、夏だった。
脳裏に浮かんだ幼いれおの姿を、頭を振って追い出す。
ラーメンを食べた後、れおは我慢できないような顔をして、ねだった。
――俺の方がよっぽど我慢できないのに。
そう思いながらも、余裕なふりをして、れおが望むように肌を重ねた。
薄明かりの中、眠っているれおを手繰り寄せて、その唇に口付けを落とす。
「ん...」
微かに息を漏らして、彼が目を開けた。
「ごめん起こした」
「えぇ〜いいよぉ。眠れないの?」
眠そうな声で眠そうに目を擦っている。
半身を起こした彼の肩からするりとシーツが滑り落ちた。
白く細い体に散った無数の赤い痕を見ると、じわりと独占欲が満たされていく。
自分の横で眠っている時だけ、れおは自分のものになる。
それ以上の高望みは、しない。
そう自分に言い聞かせた。
れおは頭が良いわけではない。打算的なことも、計算的なことも苦手だ。
だかられおのストレートな愛情表現は、そのままの意味で捉えて良いのだと思う。
寝ぼけた顔で見上げるれおの髪をくしゃくしゃと撫で、響紀はベッドサイドに置いた煙草に手を伸ばした。
「ねたばこはかじのもと~」
半分ふざけたようにれおが言う。
「うるせ」
お構いなしに火をつけ、肺腑に苦い煙を行き渡らせる。
時刻は4時。日が昇るにはまだ時間がある。
「響紀」
突然れおが煙草を響紀から奪い、唇を重ねた。
「こっち吸って」
甘えたようにそう言われて、今度は響紀かられおの唇を奪った。
「なあ京司」
舌を割り込ませた口づけで余裕なさげに上気したれおに、囁く。
「もうここに住めば」
本心だった。
唇を離すと名残惜しそうにれおが舌を出す。
「一緒に住めばいいじゃん、ね」
とろけた顔でれおが頷いた。
例え、この場を凌ぐためだけに頷いたのだとしても、響紀は十分だった。
枕もとに置いた灰皿に煙草を押し付ける。
そのまま覆いかぶさり、れおの白い首筋に嚙みついた。
だから、というわけではないが、突然れおが前触れなく大量の荷物を抱えて家に来た時は驚きと喜びが入り混じった感情になった。
「一緒に住もう」という提案が床での戯言だと捉えられていなかったのは意外だった。
「防音なんだっけ?ベース弾き放題?」
愛用しているショートベースを勝手にリビングで弾きながられおが問いかける。
一瞬間が開いて、響紀はうなずいた。
「やった~」
心底嬉しそうなれおの顔を見て、響紀は自分の口元が緩んで行くのを感じた。
「京司、お前風呂掃除くらいはしろよ」
「えーがんばる。家賃は身体で払うね~」
冗談めかしてそういうれおに少しだけ煽られて、響紀も意地悪く笑う。
「泣くまでヤるわ」
「きゃ~えっち~」
別に冗談を言ったつもりではなかったのだが、れおはけたけた笑っている。
今までも一緒に居たり、一緒に出かけたりしていたが、自分の家に本格的にれおがいると思うと、込み上げてくるものがある。
「好きなくせによく言うよ」
一目惚れしてから12年、身体の関係を持ってしまってから5年、少しだけ前に進めたような気がする。
「うん。響紀好き」
その言葉が本心から聞けるようになるまでは、あとどれくらいかかるだろう。
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