あさひがのぼるまえに

「ひびき…っ」

絡ませた舌の隙間から漏れた名前に、違和感を覚えて身を離す。

呟いた本人も驚いているようで、一瞬バツの悪い顔をした後、柔らかく笑った。

「ごめん!」

数多いる相手の中のひとりだという自覚はあったものの、こう、生々しく別の男の名前を聞いてしまうとヒリつく何かが胸の中に生まれる。

一度止まった腰を再び動かしながら俺は意地悪く聞き返してみる。

「誰?れお」

「えー、教えない」

意地悪をしているというよりも、言いたくなくてはぐらかしているようだ。

れおはわかりやすい。

「お前さ、名前間違えんなよ。刺されるよ」

「平気だもん」

ちょっと生意気に口答えするれおの腰を撫でる。そのまま両手で掴んで引き寄せると、甘い声を出した。

「俺は寝取り好きだからまだいいけどさー」

れおに言ったつもりだったが、自分に言い聞かせているようになってしまった。

可愛い声で啼いているれおには届いていないかもしれない。

「なあれお、じゃあ俺とそのひびき、ってやつどっちが好きなの」

体勢を変える。れおをベッドにうつ伏せにさせて後ろから覆いかぶさる。

「いわない」

そこは嘘でも俺、って言ってほしかったんだけどな。

余裕のなさそうなれおの腰を持ち上げ、そのまま挿入する。白い背中に散った赤い痕は、俺がつけたものじゃない。首筋に吸いつき、もうひとつ増やした。

「彼氏?」

「ん…っちがう」

腰を動かしながら耳元で聞く。

「セフレ?」

れおはそれには答えず、短く浅い呼吸に混じって甘い声を出している。

これ以上は多分答えないだろう。

顔をこちらに向けさせ、そのまま唇を奪った。


「じゃあね~」

それから2回ほど致した後、れおは終電で帰っていった。喉まででかかった「泊まっていけば」を言えなかったのは何故なのだろう。

玄関まで見送った後、駅までの道が見えるベランダに出た。煙草に火を付けながら、先程まで腕の中で喘いでいたピンク色の頭が小さくなっていくのを眺める。

れおが呟いた「ひびき」のことが妙に気になってしまった。

あまりそういうことはなかったのに、思わず口に出てしまうほど思い入れのある男。いや、もしかしたら「ひびきちゃん」かもしれないけれど。

なんとなくスマホを取り出してれおのインスタを見に行く。

そこそこ人気のあるれおは、フォロワーは多いがフォローはそこまで多くない。

少ないフォローリストをスクロールしていくと、それらしきものがあった。

アイコンは後ろ姿。鍵をかけているから投稿内容は見られないが、フォローもフォロワーも2桁だ。身内用のアカウントかもしれない。

プロフィールには、「Hangover」のみ。二日酔い…?なんだろう。

れおのフォロー欄に戻り、もう少しスクロールしてみると、こちらも見つかった。

「Hangover」というアカウント名で、アイコンはオリジナルであろうロゴ。

プロフィールに飛ぶと、それはインディーズのバンドだということが分かった。

正方形に切り取られた写真がいくつも並ぶそこを眺めていると、数年前の投稿に見慣れた顔を見つけた。

れおが写っている。

何気なくその写真をタップして見てみると、2枚目にはれおと背の高い男が写っていた。

「響紀と!」と書かれた文章を読んで、一緒に写っている男が例の「ひびき」だと確信した。

れおより20cm以上背が高い。引きの写真だからよくわからないが、顔立ちもはっきりしているように見える。正直言って、男としてかっこいい部類に入るだろう。

「女にモテそーなのに」

別の写真を見ると、水を飲んでいる「ひびき」の姿がある。こちらは顔がはっきり見えている。どこかの俳優にでもいそうな顔だ。その証拠に、「ひびき」の写ってる写真のいいね数は桁が違う。

バンドやってて、女にもモテそうなのに何故れおなのだろう。

何不自由してなさそうなのに、よくわからなかった。



俺とれおの出会いは、適当なクラブのイベントだった。DJしながらのらりくらり生きていた俺は刺激を求めていたんだと思う。

寄ってくる女を片っ端から抱いて、時にはその彼氏から殴られることなんかもあったけど、それはそれでスリルとして楽しかった。

でもスリルも何度も味わえば感覚が麻痺してくる。新しい何かを求めていた俺の前に現れたのが、れおだった。

その時のれおは3ピースバンドを臨時で組んでいて、イベントゲストだったと思う。

楽屋挨拶の時は女みたいなやつだな、としか思わなかったが、ベースを持ったれおは違った。

キマってた。目が離せなかった。あんなに脳の奥まで響くベースは聞いたことが無かった。

俺の為に弾いてほしい。そう思わせるような魅力があった。

会場もれおのファンと思われる女の子たちが多く、元々人気のあるベーシストなんだろうと容易に想像ができた。

衝撃だった。

思わずバックステージに走った。あの子と話さないと気が済まない。

その時れおが組んでいたバンドの名前は忘れたが、楽屋に行ってもいなかったのを覚えている。

探しながらふと足を踏み入れたトイレで、俺はその姿を見つけた。

興奮からか、上気した呼吸が嫌に熱っぽかった。潤んだ瞳がおぼろげに俺を捉えている。汗だくでトイレの汚い床に座り込んでいる彼を見て、初めて味わうような欲情が湧き上がってくる。俺が何か言う前に、彼は立ち上がると出て行ってしまった。

俺はその日かられおの事しか考えられなくなった。


しばらくした後に開催された大きめの飲み会で、れおが出席していた時は女の子なんか眼中になかった。こんなことは初めてだ。なんでヤロ―のことを気にしてるんだ俺は、と思った。

れおの方はトイレで会ったことなんか覚えちゃいなかったが、それでも話してみると不思議な魅力にどんどん惹かれていった。

俺はノンケだ。可愛い女の子が好きだし、男なんか興味もない。そのはずなのに、れおだけにはこんな感情を抱いている。

れおの快楽主義のおかげもあってか、俺たちがセフレになるのにさほど時間はかからなかった。

れおが俺以外にも、女とも男ともそういう関係があることは知っていたが、あからさまに匂わせられることはなかった。

だからこそ、この「ひびき」が気になって仕方がない。



れおはあの日から1週間ほど顔を出さなかった。インスタは更新しているから、単純に俺に気が向いてないって事だろう。自由気ままなやつなのは知っていたが、やるせなくなる。

会いたい、と口に出すのは簡単だが、俺たちの関係はそれを良しとしていない。都合のいい時だけお互いを使う、都合のいい関係。それ以上を望んだら、きっと俺たちはダメになる。

既読のつかないLINEを開いたまま俺はぼうっと見たくもないテレビを眺めていた。

手のひらに振動が伝わってくる。スマホを見ると、れおがインスタでクラブの画像を載せていた。

『12時までいるよ、会える人会お』

数万人のフォロワーに向けたものではなく、親しい友人しか見られない投稿。

考えるよりも早く、俺は荷物を掴んで家を飛び出していた。

電車を乗り継いで、久々にそのクラブを訪れた。

階段を下って扉を開けるとくぐもった音が扉の隙間から漏れてくる。なかなか盛り上がっているようだ。

チカチカする証明が降り注ぐ中、すし詰め状態の人々を押しのけながら、ドリンクカウンターまで行きついた。

「あ、旭?」

聞きなれた声がして振り向いて、俺は固まった。

暗闇でもわかる可愛い顔の後ろに、ネット上だけで見ていた顔があったからだ。

れおは、例の「ひびき」と一緒にいた。

で、でかい。

175㎝でも小さいわけじゃないと思っていたが、俺よりも10㎝以上は背が高い。

それだけで、息巻いていた俺の良くわからない対抗心はしぼんでいく。

思いがけないところで会ってしまったせいで、俺は妙に緊張してしまっていた。

面識自体はないが、一方的にネトストまがいのことをしていたと思えば少しだけ後ろめたさもある。

「よ、ようれお」

絶対顔引きつってる。ドリンクを貰いながられおに手を振ると、人懐っこい笑みを浮かべて近づいてきた。

「俺に会いに来てくれたの?」

こういうところが良くない。可愛いから良くない。

「まあ、そんな感じ」

れおから目をそらしながら誤魔化した。

「あ、紹介するね。こちら響紀。ドラマーだけど大体楽器なら何でもできるんだよ~」

「橘です。どうも」

ちらりと俺を見てから軽く頭を下げてくる。しかし、もう興味がなくなったようで彼の視線はすぐにれおに向けられた。

「こっちは旭。DJやってるんだよ」

れおが今度は俺を紹介した。

「旭です。よろしくっす」

橘響紀。何となく聞いたことがある気がする。でも苗字を知ったのは今日が初めてのはずだ…。

「あ!え、もしかして、ASOBIBAのシングル作曲の橘響紀!?」

記憶の隅に思い当たるものがあったので引っ張り出して大きな声を出してしまった。

響紀は眉間にしわを寄せた。

「はい。そうですけど…」

「ま、マジですか!?俺すげえあの曲好きなんですよ、アニメの主題歌になった『Loser』!」

「はあ、ありがとうございます」

思わず捲し立てた俺に若干引きつつも、響紀は軽く頭を下げた。

ASOBIBAと言えば、歌い手出身だが最近ではどんどんオリジナル曲を出している女性歌手だ。アニメは勿論、連続ドラマの主題歌にも抜擢される実力を持っている。彼女の表現力は大前提だが、彼女に曲を提供している作曲家も密かに人気がある。その中の一人が目の前にいる彼だという。大ファンとまではいかないが、彼女の曲はよく聞く方だ。

「響紀すごいよね」

興奮している俺を見てれおが目尻を垂らした。

「仕事依頼されただけだよ」

「もう。またそういうこと言って!」

クールな響紀にれおが頬を膨らませている。

「2人はどういう関係なんですか?」

何気なく聞いて、しまったと思った。聞き方がなんだか良くない。

響紀は答えずに目をそらした。れおは一瞬考えた後に右上の方を見た。

「幼馴染、かな?」

あ、これ幼馴染じゃないな。

俺の勘が告げた。好きな作曲家を前にした興奮はしぼんできて、また劣等感のような、暗い感情が膨らんでくる。

「腐れ縁だろ」

「もっと良い言い方してよぉ」

「じゃあ居候?」

「もう~~~!」

「い、居候なんすか?」

初めて聞く話に俺は置いてけぼりになっている。

「あ、そうそう。俺いま響紀の家に住んでるの」

後頭部を殴られたような衝撃を受けた。

いや、れおが自分だけのものだなんて、そもそも思ってもいなかったけど。いなかったけど。

嫉妬心とか、対抗心とかそんなもの抱く間もない。

「お前、俺いないと駄目だもんな」

あからさまにれおへの声が優しい。低い声で冗談なのかそうじゃないのか分からないことを響紀が言う。

冷たい目がちらりと俺を見た。

れお、矢印ギンッギンに向けられてるじゃん。

完全に俺に釘刺しに来てるじゃん。

れおの気持ちがどうなのかはわからなかったが、少なくとも響紀はれおのことを好いている。

しかも、身体の関係もあるのだろう。れおが別の男との最中に名前を呼んでしまうほどの熱量でセックスしているらしい。

告白なんて学生みたいなことをする前に、俺は振られたような気になった。

「じゃあちょっと呼ばれたから、またね」

れおがスマホをちらりと見てからそう言った。そのまま俺に手を振って人ごみに紛れていく。

その後ろを、ボディーガードのように響紀もついていった。

「勝てるわけねえじゃん、あんなの」

意気消沈気味の俺はバーカウンターに行ってテキーラを注文した。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。