雀荘「白娘々」にて

地下1階にある薄暗い部屋の中には煙が充満していた。ほとんどの人間が煙草を吸いながら麻雀を打っている。

コンクリート打ちっぱなしの床は汚い。部屋の中に構わず灰を落とすからである。しかし、落ちているのは灰だけではない。馬券や小銭、よくわからない紙くず、時には注射針などが混じっている。

コンクリートむき出しの壁にはチカチカするネオンで「餃子」と書いてある。直接壁に貼られた何かの催しポスターは数年前の日付のものだ。中国語で書かれたメニュー表はヤニで黄色く汚れていた。

ある程度の広さの中に、いくつか雀卓が用意されている。それぞれの雀卓には4人ずつ男が群がっている。あるところでは、娼婦が後ろから配牌を眺めている。所々にぼろぼろのソファが置いてあり、その上で眠っている人間もいた。

この雀荘――「白娘々」は、合法ギリギリで営業している店だ。やくざ、半グレ、違法滞在者…金さえ払えればどんな客でも受け入れる――そういう店だった。

そんな店の雀卓の一つで、男はビールケースの上に座ってジャラジャラと牌をかき混ぜる。

右手にびっしりと何かの漢詩が彫られており、手の甲には「我」の刺青。

慣れた手つきで男は牌を積んでいく。

この卓は三麻のようだ。男は卓のフチに置いたウイスキーを震える手で傾けた。

「随分やっちゃってるじゃん」

長髪を後ろで束ねたその男は向かいに座った界人の様子を見て片頬で笑った。

界人は一度男の顔を見た後、すぐに手元の牌に目を戻す。

「いやー楼さん、こいつやーばかったんすよ!!」

卓を囲った濤川が、待ってましたと言わんばかりに食いついた。

楼と呼ばれた男は牌を確認する手を止めた。面白そうな話題だ。

「なになに?聞かせてよ」

気になって仕方がないという口ぶりで楼は濤川を煽った。

「あんま詳しく言えないんすけどめちゃくちゃ暴走してアニキにこっぴどく叱られたんすよ」

「おもろ。こんなボロボロの界人見たコトないもんな」

時々やってきてはこんな風に雀卓を囲む仲だ。深く詮索はしないが、お互いに綺麗でない身であることは察しがついていた。しかし、こうもあからさまに怪我をしているとなると、その理由は気になるものだ。

揶揄うような楼の言葉に界人は片眉上げた。

「うるさいっす」

積まれた牌からひとつとり、手牌と見比べ、1つ切る。

「黙って殴られてたの?やり返しちゃえば」

楼は手を動かしながら煽るように言った。

「ダメダメ、こいつ兄貴のこと大好きだから」

濤川は一度手を止め、卓の上に置かれた瓶ビールに直接口をつける。中国から仕入れた珍しいビールだ。

「大好きとかじゃない」

「へぇー?殴られて黙って受け入れてるのに?」

10個くらい年下の界人をいじるのは楽しい。楼は時々遊びに来るこの青年の、こんな姿は見たことなかった。

麻雀で勝っても負けても顔色一つ変えない男が、何をやらかしたというのだろう。

「反省はしてる」

本当に?と聞きたくなるような無表情で界人は呟いた。配牌を確認する。

「でもちょっとこいつ喜んでんだよ!」

「え、界人マゾなの?」

楼も手元の配牌を見る。濤川も牌を立てた。

「ちがう」

「じゃあなんで?」

にやにやしながら楼が聞いてくる。

「巽さんの見たことない顔が間近で見られたから」

「やべーよマジで」

予想外の言葉に一度考えた後、噴き出した。そんなサイコパスみたいな、と言いかけてやめる。あながち間違いではないと思ったからだ。界人が再び口を開いた。

「いつも笑ってる人が怒るとあんな感じなんだなって。あと、殴ってもらえて嬉しかった」

「マゾじゃん」

思わず口に出てしまった。どちらかというと加虐欲の方がありそうだと思っていたが、違ったようだ。

「巽さんの拳ってあんな感じなんだなって思った」

「ガチやべー」

濤川が笑いながら烏龍茶を飲んでいる。いつの間にか炒飯も頼んでいたようで、チャイナ服を着たウエイトレスの女の子が運んできた。

楼は身を乗り出して界人の肩を叩く。そしてしみじみと深くうなずいた。

「でも俺わかるよ、界人。好きな人に殴ってもらえると興奮するよね」

「おい楼さん、界人に変なこと言うなよ!」

炒飯を吐き出しそうになりながら濤川が間に入った。

「好きな...ひと...?」

界人が首を傾げる。

「界人がバグっちゃってるじゃん。好きとかそういう次元じゃねえのこいつの巽さん愛は」

「えーそうなの?あはは。おもろ。じゃあさ、界人はそのタツミサンが死ねって言ったらどうするの」

楼の瞳が細くなった。

「死ぬ」

「じゃあ殺してって言われたら?」

「殺す。そのあと自殺する」

「わお」

本当に、予想外だ。何にも執着せずに生きていた男だと思っていたのに。

楼は、身分証明書も何も持っていない状態の界人を受け入れたことがある。雀荘を転々としていた時からの付き合いだ。過去に何があったとか、仕事で何をしているかなどは全く知らない。連絡先も知らない。時々こうして顔を出して、その時の行き当たりばったりの話をする。それでも、なんとなくどういう人間なのかはわかっているつもりだ。

そんな子がここまでいうとは。

――界人は正直、ウチが欲しかったんだけどね。

懐から取り出した煙管に火をつける。独特の香りの煙が充満していく。

「ね?言ったでしょ、界人はガチなの」

濤川が茶化すように楼の方を見た。

「なかなか重症だね、ウケる」

「ロン」

界人が低く言った。

「あ!!!!!」

楼と濤川の声が重なった。

「ったくつえーよな界人は」

濤川が牌をほっぽり出して本格的に炒飯を食べ始めた。

楼は卓に肘をついて界人を見る。

「今度連れてきてよ、タツミサン。会ってみたい」

「嫌っす。楼さん、何言うかわかんねーし」

界人はウエイトレスが持ってきたビール瓶の栓を抜き、口を付けた。

「えー変なこと言わねぇよぉ」

そう指摘され、肩をすくめた。本心は別に言葉通りではない。

この楼という男は、この雀荘のオーナーだ。国籍は中国にあるらしいが、どういう経緯で日本に滞在しているのかはわからない。店の傾向のせいもあって、アウトローな話題に詳しく、情報屋のような一面も持っていた。

界人がふらふらしていた時代に来るようになった雀荘のひとつだが、今は紹介でしか入れないようになっている。

九龍を思わせるような退廃的な雰囲気は楼の趣味であるらしい。

この男もなかなかつかみどころのない男だった。

「…」

界人は何も言わずに楼を見た。

――ホント、このガキは凄い目してんなァ。

感情の読み取れない目をのらりくらり躱すと、楼はお手上げといわんばかりに両手を振った。

「あ!やべえ、俺ベイビーちゃんが待ってるんだった!楼さん帰るね!」

突然何かを思い出したかのように濤川が立ち上がり、いそいそとポケットから小銭を出して卓に置いた。

「なに~?彼女?」

「ううん、ウサギちゃん」

そう言って濤川はスマホの待ち受け画面を見せる。白いウサギが草を食べている写真だった。

「わぁかわいいね~」

界人は咄嗟に美味しいのかな、と思った。小学生の頃のことを思い出して一度のみ込むが、なんとなく声に出してみることにした。

「美味しいのかな」

「エサいっぱい食べてるから美味しいと思うぞ~っておい!喰うな!」

濤川が界人を指さす。キレられて怒られるかと思いきや、そうはならなかった。

「アンタって変わってるよね」

「はぁ?変わってるのは界人だっつーの!じゃあね!」

一息で捲し立てると濤川はジャケットを抱えてそのまま地上へ続く階段を1段飛ばしで上がっていった。

「瞬は元気だなぁ」

楼が目を細めて微笑んでいる。界人は濤川が放りだしていったビールの空き瓶を床に置いた。

「で、俺の情報は役に立った?」

唐突に問いかけられ、界人は一度その内容が何であるか考えるが、すぐにそれが先日の牧野組と中国マフィアとの一件のことを指していることに気づいた。

「はい、助かったっす」

中国マフィアの動向を流してくれたのは他でもない楼だ。どうやってその情報を仕入れているのかはわからないが、彼の情報は正しいものが多い。この店の常連として来ていたのかもしれない。

いずれにせよ、楼のおかげで中国マフィアと鉢合わせることもなく動けたのだ。

元々、そのお礼をしにここまで来たというのに、流れで何局か麻雀を打ってしまった。

「これ、お礼です」

界人はそう言うと脇に置いた紙袋から帯付きの札束を2つ取り出して卓の上に滑らせた。

「那个是钱吗?也请给我」

ひとりの浮浪者のような男が吸い寄せられるように近づいてくる。界人は中国語はわからないが、金を指さしているので何となく内容はわかった。

こんなところで出すべきじゃなかったかもしれない。

楼は男を一瞥した後、低い声で言った。

「把这个笨蛋揪出去」

店内が水を打ったように静かになった。

奥からスキンヘッドに顔までタトゥーの入った男が2人現れる。日本で言うところの仁王像のような筋肉に迫力のある目をしているが、彼らも国籍は中国だろう。

双子のようにうり二つの男たちは、喚く浮浪者のような男の脇を掴んで引きずっていく。

異様な光景に静まり返った店内だったが、楼が二度手を叩くと皆それぞれのところへ戻っていった。

「界人、お金なんかいいのに。と言いたいところだが、有難く貰っておこう」

芝居がかった声音でそう言うと、楼は漢詩だらけの手で片方の束だけ掴んだ。

「でもそこまで大変な情報だったわけじゃないから、一個で充分。もう一個は自分で取っておきなさい」

「はあ」

「なんだ、その返事は。欲しいものあるだろ、それ買えよ」

そう言われて界人は黙ってしまった。欲しいものはない。

「え、何その反応。欲しいものないわけ?」

「ないっす」

信じられないというように首を振りながら楼は吸いかけの煙管を再び吸い込む。

なんの煙草だろう、と気になったが聞かなかった。

「まだ若いのに無欲で困るねえ、仏教徒かよ」

「別にそういうわけじゃないっす。じゃあ、俺もこれで」

界人は雀卓の上に置いたままの札束を掴むと紙袋に仕舞った。

ビールを飲み干し、空き瓶を濤川のものと並べて床に置く。その流れでポケットに入っていた小銭を濤川と同じように雀卓に置いた。

「また来ます」

軽く頭を下げるとビールケースから立ち上がり、コンクリートの階段を上っていった。

楼はウェイトレスの女の子を呼び、小銭の回収と後片付けを頼む。

帯付きの札束で己を仰ぎながら席を立った。

「楼さん一枚くれや~」

「あの兄ちゃん景気良かったなぁ」

雀卓の間を歩くたびにそう声をかけられるが適当に手を振って誤魔化す。

男たちの隙間を縫って、赤い暖簾の奥に姿を消した。


奥の客間――VIPルームというべきか、オーナールームというべきか、プライベートゾーンでもある薄暗い客間には、ひとりの金髪の男が座っていた。

「あぁ、タツヒコ。来てたの」

札束を懐にしまうと、楼はその男に話しかける。

「やあ、楼芳。頼まれていたものを持ってきたよ」

そう言うと男は脇に置いた鞄からカードを取り出した。

在留カードだった。顔写真も、名前も、楼のものではない。

「わあ、助かるね。うちの従業員、不法滞在だから」

けらけら笑いながらそのカードの裏面も確認する。

「どうやってこれ取るの」

「教えたら俺らに仕事来なくなっちゃうから教えない」

男は困ったように笑った。楼も目じりを垂らす。

「それもそう。いいお客さん同士だからね」

満足げに楼はそのカードも懐に仕舞いこんだ。

「ところでタツヒコ。タツミ、って知ってる?」

男の動きが止まる。しかし、すぐに唇の端が上がった。

「知らないよ。どうして?」

「さっき友人が来て、その人の話で盛り上がっていたからね。キミも情報通だから、知ってるかなと思って」

「苗字までわからないと、何とも言えないよ」

「それもそうだね」

楼は煙管を取り出してマッチで火をつける。ぼんやりとした不思議な香りが漂う。

「阿片?」

「よくわかるね。そうだよ。吸う?」

男は首を振った。代わりに、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。

「煙草、身体によくないよ」

「阿片もね」

楽しそうに楼が笑う。つられて男も少し笑った。

「渡すもん渡せたし、帰るね」

「またね~」

軽い調子で楼が手を振る。男――神谷巽は、軽く片手を上げてその部屋を後にした。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。