【シキケン】磑風舂雨
「雨止まねぇな」
濤川が金髪の前髪をいじりながら窓の外を見た。
灰色の事務所の中から見る外の景色も、勿論灰色だ。
「しばらく雨」
灰賀はぶっきらぼうにそう言うと、パイプ椅子に腰かけた。
事務所の中には会議用の長机が4つ並んでおり、それを囲むように乱雑にパイプ椅子が置かれている。
部屋の隅には、お湯を汲む時だけ使われている簡素なキッチンが一つ。
事務所と言っても、次の現場仕事に行くまでの時間を潰すための適当な待合室みたいなものだ。
神路町の雑居ビルのひとつに、神谷組の事務所がある。
神路町と言えば、繁華街として栄えておりキャバクラやホスト、風俗、バーなどが所狭しと並んでいる。
この事務所も例外なく、風俗ビルの中にあった。1階は無料案内所、2階には中国洗体、3階にはリフレ、4階に事務所がある。
表向きは「相談所」と銘打っているが、相談に来る客はいない。いたとしても、重々しい鉄扉を開ける勇気はないだろう。
そんな事務所の中で、濤川と灰賀は次の仕事の連絡が入るまで時間つぶしをしていた。
「界人ってさ、なんで神谷組入ったの?まだ若いっしょ」
窓際から移動し、横に座った濤川を一瞥する。
「高校出てからやることなかったんで」
「マジでやべーやつだよなお前」
灰賀の予想外の回答にけらけら笑いながら濤川は頬杖をつく。
「界人と組まされた時マジどうしようかと思ったんだよね。1か月前から高校生だった奴と俺が!?ってさ~」
「はあ」
「鼻水垂らしたボンボンが来ちゃったらどうしよって焦ったもん」
「よかったな、俺が鼻たれじゃなくて」
思いがけない灰賀の返しに濤川が噴き出した。意外とこういう冗談も言ったりするのだ、灰賀は。
「あはは、ホントだよ、変なでけーやつでよかった!」
「…俺も」
「なに?」
「俺も、もっと怖い人しかいないと思ったのにアンタみたいな馬鹿がいるもんなんだなって思った」
「なんだとてめえ!俺の方が年上だし先輩だぞ!!!!」
「でも俺の方が仕事できるよ」
「ぐぬぬ」
頭に血は昇りやすいが持続はしない濤川は、振り上げたこぶしをすぐに下した。
単純な男なのである。
「はー、俺でよかったな、バディが!俺の時なんか、めちゃくちゃ怖いヤスさんって人と一緒だったんだぜ?いつも怒っててさ~今執行猶予中らしいけど」
「ふーん」
濤川の話を聞いているのか聞いていないのか、灰賀は興味なさそうな返事をした。
しかし、濤川はお構いなしに話し続ける。
「もう入って2年くらい経つけど、俺まだ巽さんの事あんまり知らないんだよね。亡くなった若頭の弟って言うのは知ってるんだけど」
灰賀が濤川の方を見た。
もう少しこの話を聞きたいのだと察した濤川は、そのまま続ける。
「そんな顔されたって、俺もあんまり知らないよ。そりゃ、界人よりはちょっと付き合い長いけど。あの人、全然自分の話しねーんだもん。めちゃくちゃ優しいけど絶妙に掴みどころないし。どこ住んでるかも知らないし」
「俺それ知ってる」
「はぁ?なんで」
「教えない」
「ったくよぉ」
大きく伸びをして、ついでに欠伸が出た。壁にかけられた時計を見る。時刻は23時。
窓にぶつかる雨の音は弱まる気配がない。
「でもあの人仕事終わるといつも本家に帰るじゃん?本家に泊まり込んでる時もあるし。巽さんクラスになったら家ちょ~でっかいんだろうな~」
「巽さんは組長の息子なんだし」
「ま、それもそっか。時期組長は巽さんかなあ〜めっちゃ仕事できるし。この間取引先で英語ペラペラだったのビビったし」
灰賀はそれに頷く。
それと同時に、雨音に混じる異音に気が付いた。カツンカツン、と階段を上がってくる足音に耳を澄ます。
へらへらと笑いながらそんな話をしている濤川は気づいていない。
僅かな緊張感を発すると、やっと濤川が扉の方へ目線をやる。低い声で灰賀に問いかけた。
「誰かな」
「さあ」
「嫌な客じゃないといいけどなあ」
呑気な口調だが、先程までの緩んだ空気ではない。
鉄扉につけられた擦りガラスの向こうに、黒い影が浮かび上がる。
襲撃なんて映画の中のことだと思っていたが、ついこの間半グレが別の事務所に押し入ったと聞いた。明日は我が身、引き締めなければならないと時任に言われたのはつい先日のことだ。
パイプ椅子から僅かに腰を上げ、いつでも動けるように身構える。
灰賀は徐に立ち上がり、扉からの射線を遮る棚の影へ移動した。
ドアノブがゆっくりと回る。事務所のドアの鍵はかけていない。
錆びついた蝶番の音をさせながら、扉が開いた。
「は~、雨強すぎだよ」
神谷巽だった。
張り詰めていた緊張がとけ、2人は大きく息を吐いた。
巽は傘を持っていない。ぽたぽたと雫が落ち、彼の足元にどんどん大きな水たまりが出来ていく。
濡れた髪が額に貼りついていた。
「半グレかなんかだと思った?」
2人の緊張を見て察した巽が肩をすくめる。
「思ったっすよ~~~こんな時間で、しかも雨なんて言ったら襲撃日和じゃないすか!!!来るなら連絡くださいよ~」
濤川が口をへの字に曲げて抗議する。
巽は軽く笑いながら片手をあげた。
「巽さん」
灰賀が雨でびしょ濡れになっている巽に、すかさずタオルを渡した。
簡素な事務所だが、そのくらいの常備はある。
「ありがと灰ちゃん」
「風邪ひきますよ」
そう言うと、キッチンの方へ行き、やかんに水を入れてコンロにかけた。
チチチ、とコンロの着火音が聞こえる。
温かいお茶でも淹れるつもりなのだろう。
巽は濤川が引いてくれたパイプ椅子に座り、背もたれに体重をかける。
椅子に座るとどっと疲れが出てきてしまう。2人が居なかったら、ここで眠ってしまいたいくらいだ。
「お疲れ様です。大丈夫っすか」
心配そうな顔をして濤川が顔を覗き込む。巽は髪をかき上げながら微笑んだ。
「大丈夫大丈夫。てか、今日はもう解散でいいよ。なかなか連絡できなくてごめんね。雨やばいしタクシーで帰んな」
そう言うと、巽は懐からマネークリップを取り出し、万札を一枚引き抜いて濤川に渡した。濤川はうやうやしくそれを受け取る。
「まじすかありがとうございます!んじゃ、俺明日もあるんでこれで!」
調子よくそう言って頭を下げると、ジャケットを掴んで戸口へと向かった。
「んじゃ、また!お疲れ様でした!」
「はいまたね~」
巽は力なく手を挙げて濤川を見送った。
彼が出ていったあと、ガチャン、と音を立てて扉が閉まる。
「灰ちゃんは?もう遅いでしょ。タクシー代あげるから帰りなよ」
キッチンでこちらに背を向けている灰賀の背中に投げかける。
「俺は別にいいす。寮なんで」
「あー、灰ちゃんウチの組の寮か。ここから近いね」
「はい」
そう言うと、灰賀は湯呑を2つ持って巽に近づいた。後ろから、机に湯呑を置き、自分は立ったまま傍に控えた。
「灰ちゃんも座っていいよ」
一連の動作を見守った後、巽がパイプ椅子を引いて促す。
灰賀のそういう礼儀をわきまえているところが、年齢不詳を際立たせている。
「はい」
軽く頭を下げて椅子に浅く腰掛ける。巽は湯呑に手を伸ばした。
舌の根にジワリと広がる温かさを感じつつ、巽は灰賀をちらりと見る。19歳には見えない佇まいだ。どちらも特に口を開かず雨音だけがこだましている。
「酷い雨だね」
「はい」
「雨だと嫌なことばっか思い出すんだよ。灰ちゃん、雨の思い出とかあるの」
「ありますよ」
「え~何~?」
「巽さんに出会った日です」
灰賀の真っ黒な瞳が巽を見た。
大抵、どういうことを考えていて、どういう意図をもって発言しているのかわかるものだ。巽は特にそういうのに敏感だったし、そういうことを察するのが得意な方だ。しかし、灰賀の目からは何も汲み取れない。感情を一切表に出さないのだ。それが意図的に行われていることなのか、無意識のうちに行っていることなのか、わからない。
「雨の日だったね」
ブラックホールのような瞳から軽く目をそらし、湯呑を傾けた。
「こんな雨でした」
「ここまで酷かったっけ」
「酷い土砂降りでしたよ。外なんか出る人いないくらい」
灰賀が机に頬杖をつく。
「なのに灰ちゃんは出かけて、びしょ濡れでうちの組の前にいたじゃん」
「はい。雨の日じゃないとダメだったんで」
「そうなんだ」
「でもおかげで、雨が好きですよ俺は」
感情がこもっているのかこもっていないのかわからない声で灰賀はそう言い、頬杖をついたまま巽を見た。
灰賀の視線はやはりどこか虚ろなところがある。何かを言いたげではあるのに、何も問いかけては来ない。底知れない何かを背負っている気がするのだ、彼は。
「そうなんだ、いいねぇ」
何を言って欲しいのかがわからない。だから、一辺倒な当たり障りのない言葉を羅列してしまう。珍しく巽が戸惑う人種だ。少しだけ兄に似ているからかもしれない。
「巽さん、もう帰ります?」
「あ~、灰ちゃん帰るなら帰ろうかな」
彼の核心をつくような話題は難しい。触れ方によっては、若い彼を傷つけかねない。
「送っていきますよ」
「そういうのは女の子にやってあげなよ~」
いつも自分が女性にするような発言を向けられ、僅かに戸惑いながら苦笑する。
「…はぁ」
首を傾げる灰賀を笑いながら、巽は窓の外へ視線をやった。
雨はますます強くなっていた。
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