【シキケン】密葬
葬式の日は、雨だった。
死に方が死に方だったので大々的には行わず、小さな家族葬にすることにした。
家族葬と言えど、交流のあった人たちにはハガキを出した。葬儀代に捻出するお金がないほどギリギリの生活をしていたわけではなかったが、大きくしすぎるのは懐が厳しい。
「だからあの人と結婚するなんて反対したのにねえ」
わざと大きな声で聞こえるように嫌味を言っているのは、伯母だった。
耳に胼胝ができるほど聞きなれた言葉に、妻は怒る気力も湧かない。
淡々と手続きを済ませ、報せを受けた故人のわずかな友人が好意で訪れた。
夫の友人と交流関係なんてほとんどない。わざわざ話に花を咲かせに行く必要もないと思えば、軽く頭を下げるだけだ。
大抵の場合は喪主である妻も顔見知りであることが多い。そのため参列者の身元はわかっているはずなのに、全く心当たりのない顔ぶれがあった。
喪服に身を包んだ長身の男。
一目で目を奪われるような整った顔立ちの男が訪れた時、少数しか来ていなかった親族にも動揺が走った。
故人といえば、冴えない中年の男である。20代だと思われる男と接点があったようには思えない。
関係性を尋ねるわけにもいかず、後からこっそり帳簿を確認すると、そこには「神谷巽」と書いてあった。
心当たりのない名前だ。
不思議に思いながらも、妻はその俳優のような甘いルックスに目を奪われてしまう。
故人の名は、八瀬肇という。30代半ばにして半グレのようなことをしていたが何を思ったのか一年前に一念発起して小さな自動車整備会社を建て、細々と生活していた。ガラこそよくはないが、それでも商売っ気はあったのでそこそこ繁盛していた会社だった。
会社を建てるのと同時に、年下の恋人と結婚して順風満帆な生活を送っているように思えた。
だが数日前、彼は通り魔に刺されて殺された。
なぜあんな良い人が、と言われる人間ではなかったが、これはこれであまりにも残酷な死に方だ。それに、突然のことで周りにいた人間は現実を受け止めきれていないようだ。
若妻もその1人で、突然訪れた夫の死に気持ちの整理はついていない。
未亡人と故人の間には不幸中の幸いか、子供はいなかった。
妻は、麻耶といい、今年で30歳になる。旦那とは5つ離れていた。チンピラのような旦那とは真反対の、おとなしい空気を纏っている女だ。どうして2人が付き合うことになって、結婚まで至ったのか、経緯を知らない人は不思議に思う組み合わせだ。
肩のあたりで切りそろえた黒髪が喪服と妙にマッチしていて悲壮な空気が艶かしい。
表情こそ暗いが、彼女は、心の底から深く悲しんでいるわけではなさそうだった。妙に達観した、冴えた頭で参列者を観察していた。
例の神谷巽の後ろには数人、ガラの悪い男たちが続いた。
チンピラ時代の友人だろうか。
麻耶はそんなことをぼんやり考えながら、他の参列者への挨拶を済ませた。
ホールに建てられた祭壇の真ん中で微笑んでいる夫の顔を横目に、麻耶は巽の姿を追ってしまう。妙に気になるのだ。
落ち着いた雰囲気と同時にどこか近寄りがたいものを感じる。ただものではない気がする。
胸の内にある感情がわからないまま葬儀が始まった。
雨の音が遠くから聞こえている。
特筆するようなことも起きず、段取り通りに葬式は進んだ。
故人を偲んで涙を流す人間は、そこまで多くなかった。
遺体の火葬も済み、参列者はばらばらと解散していく。一仕事終えたような気分で麻耶は胸を撫で下ろした。
「麻耶さん、お悔やみ申し上げます」
葬儀場のロビーで一息ついていると、後ろから声をかけられた。
麻耶が振り向くと、そこには神谷巽が立っている。後ろには、ガラの悪い数人の男。
麻耶は後ろの男たちを一瞬見たが、すぐに視線を巽に戻す。
「あ...はい...本日はご参列いただきありがとうございました」
「いえ、麻耶さんこそ、お疲れ様でした」
物腰が柔らかく、スマートだ。麻耶はこの青年に嫌な印象は受けなかった。
遠くで別のグループが話しているのが見える。
「あの...こんなことをお伺いするのは失礼かもしれませんが、夫とはどのようなご関係でしたのでしょう」
「......うーん難しいですね。強いていうなら元上司でしょうか」
困ったように眉を下げながら巽が微笑んだ。
「元上司ですか......」
麻耶は反芻した。夫の前職は確か半グレだ。半グレを前職と言っていいのかはわからないが。
ということは、この美青年も半グレか何かなのだ。麻耶は体が強張った。
「ああすみません。そんなに緊張しないでください。喪主でお疲れでしょうから、お時間を取らせません。単刀直入にお伺いします。肇さんが生前お持ちだったUSBがどこにあるかご存知でしょうか」
「USB…?」
「はい。うちの会社の重要データでしてね。会社を辞める前に返してもらおうと思ったんですが、すっかり持ったまま退職してしまったんですよ」
巽の瞳が鋭くなった。背筋が寒くなる。
「わ、私は夫の荷物をいじらせていただけませんでしたからわかりません...」
麻耶は早口でそう言って頭を下げた。いつのまにかロビーには自分たちしかいなくなっている。
「そうですか。もし出てきたらご連絡いただけませんか」
そう言って巽は胸ポケットから名刺を取り出した。
Bar bados owner
神谷巽
バーのオーナーをしているのか。麻耶は名刺を受け取ろうと手を伸ばした。
「わかりました。こちらにご連絡させていただきますね」
なぜだかわからないが、不安が募る。不思議な心細さがある。
麻耶の表情が少しだけ揺らいだ。
「麻耶さん」
巽が名刺に触れる前の麻耶の手をそっと握る。
麻耶は、突然のことに驚くと同時に身体に熱が帯びるのを感じた。
「おひとりで大変なことが多くなると思いますが、ご無理なさらず」
射抜かれる、とはこの事だ。そういう目だった。麻耶は鼓動が早くなった。胸の高鳴りと同時に罪悪感が襲ってくる。するりと手を引き抜いた。
「お、お気遣いありがとうございます...」
巽の目が見られない。視線を外して、胸の前で手を握りしめた。
「いえ。ではまた」
唇に弧を描いて、巽は背中を向けた。
巽の後に続いて、男たちがその場を後にする。
彼らの背中が見えなくなっても、巽に触れられた手が熱く感じた。
灰賀が巽に傘をさす。葬式場を出てすぐに、巽は煙草に火をつけた。
「見つかりますかね、データ」
「さあね。でも奥さん、何か知ってて隠してるね」
最近組入りした濤川が眉間に皺を寄せる。
「あ?!あのアマ嘘ついてんすか?!〆ます??」
「ナミちゃん、相手はカタギだよ〜慎重にね〜」
笑いながら巽が往なす。濤川は表情をこわばらせた。
「す、すみません!ハヤトチリしました!!!!!」
「巽さんには考えがあるんでしょう」
灰賀が傘を傾けながら言う。彼の肩口は雨に濡れて光っていた。
「まあね〜3ヶ月以内にはケリつける」
そう言って巽は紫煙を吐き出した。
雨が少し強くなってきたようだった。
葬儀が終わって数週間。
夫と約1年過ごしたマンションを出て行くことを決心した。ひとりで家賃を払うのが難しくなったのもあるし、広すぎる家に住んでいても仕方がないからだ。
まだ次の住居は決めていない。しかし遺品整理も兼ねて荷物を軽くまとめていこうと、ダンボールを調達してきた。
嗚呼そうだ、USBだっけ。
麻耶は夫の部屋に入り、乱雑に置かれたプラスチックの衣装ケースの2段目を開けた。
いくつかの電子機器が雑に入っている。その中にUSBメモリもあった。
生前、夫に言われたことを思い出す。
――これはいざという時に金になる。売ったりあげたりするなよ。...
夫は馬鹿だったし金策もうまくできなかったくせにこのUSBだけは手放そうとしなかった。
巽は自分たちの会社のものだと言ったが、それが本当かはわからない。
麻耶はそのUSBメモリの中身を見てはいなかったが、夫の金になると言う言葉を信じて、売れる時が来るまで待とうと思った。
――生命保険もかけてくれなかった馬鹿な夫が残してくれた最後の遺産なんだから。
いくら顔が好みの若い男の頼みとは言え、金には代えられるはずはない。ただでさえ、未亡人として細々と暮らしていかなければならないんだから。
そう思えば、薄汚いUSBメモリは宝物のように思えてきた。
肇の言う、「金になる時」は、今この時だったと言うのに、麻耶は巽にUSBを売るという発想には至らなかった。
単純に巽に嫌われたくないと言う女としての本能がそうさせたのかもしれない。交渉人が別の人間であれば、麻耶はあっさり金品を要求して、それと引き換えにUSBを渡していたかもしれない。
〜♪
スマートフォンが鳴る。
画面には見知らぬ番号が表示されていた。
恐る恐る麻耶が通話ボタンを押す。
「こちら八瀬麻耶さんのお電話ですか?」
「え、ええ。あっています」
「あーよかった!どうも久しぶりです。神谷です」
スピーカーから流れた名前にどきりとする。
神谷巽。
葬式の後から、ちらちらと脳裏をよぎった名前だ。
「あ、嗚呼神谷さん...お葬式ではお世話になりました」
「いやいや何もお世話なんかしてませんよ」
「あ、あの、ご用件は...?」
「いやー実はねぇ、ちょっと深刻なことがありまして」
なんのことだろう。USBを隠し持っていることがばれたのだろうか。
「麻耶さん、肇さんの借金についてご存知ですか?」
脳天を殴られたようだった。
呼吸が浅くなる。
金遣いが荒いと思っていたが、借金までしていたなんて。
「しゃ、借金....?」
「まあ具体的に言うとね、うちの会社にいた時に会社から借金してたんですよ。自動車整備会社建てるって言うんでそれの貸し付け。肇さんブラックリストに載ってて金融系からの借り入れできなくなっちゃっててさ。でもどうしても会社建てたいって言うんで、俺の会社で支援も兼ねて貸したんですよー」
旦那がブラックリストに載ってた?それも今初めて聞いた事実だ。
「え...」
麻耶は言葉を失った。何も言えない。
「うちも闇金とかじゃないから、厳しく取り立てもしたくないんだけどやっぱりキツくて。連帯保証人は麻耶さんになってるからちょっとずつ返してもらえないかなあ」
スピーカーから申し訳なさそうな巽の声が流れる。電話の向こうであの綺麗な顔が悲しそうな顔をしていると思うと居た堪れなくなる。
「ち、ちなみにおいくら....?」
「600万」
「ろ...ろっぴゃく....」
「コツコツ返してくれて2000万円から随分減ったんだけど流石に600万なかったことにはできなくて...すみません」
「借りたお金ですから、神谷さんが謝る必要ありません」
気丈に振る舞ったつもりだが、声が震えてしまった。
そうだ、ギャンブルや酒のせいで作った借金じゃないのだ。会社を建てるための正当な借金なのだ。負い目に感じるものじゃないはずだ。
自分にそう言い聞かせて正当化しようと試みる。
「お葬式の時に言うのは気が引けちゃって、と言っても四十九日前にすみません。肇さんは月に10万ずつ返してくれてたんだけど、麻耶さん流石にそれは厳しいよね」
「月に10万は...」
ビルの受付のバイトが週に3回。夫の会社の手伝いが週に2回。それでやっと手取りが20万いかないくらい。10万円も借金の返済には当てられない。
「だよね、いいよ、できる範囲で!俺も鬼じゃないし、ちょっとだけでもいいんだよね。こういうのって信頼関係じゃん」
「は、はい...」
少しだけ気持ちが軽くなる。神谷さんが良い人でよかった。
「でさー、電話だとアレだから近々会って決めたいことがあるんだけど、どうかな」
「も、もちろん大丈夫です。近くて明日空いてます」
「俺も明日空いてる!じゃあ神路町駅のマエダ喫茶店に13時とかどう?」
ちょうど出やすい駅だ。巽は案外近いところに住んでいるのかもしれない。
「わかりました。そのお時間で」
「はーい、会えるの楽しみにしてるね」
これじゃあまるでデートみたいだ。リップサービスなのかもしれないが、甘い言葉で通話を切られて少し余韻に浸ってしまった。
実際自分に置かれている状況は惚けている場合じゃない。借金の返済。USBの売り時。さて、どうしたものか......
とりあえず、確実に引っ越さなければならない。少しランクを落とそうかと思ったが、かなり手狭な部屋を選ばなければやっていけなそうだ。
麻耶は一通り考えたが、まずは明日着て行く服を選ぶことにした。
「麻耶さん」
喫茶店に入ると、奥の方で巽が手を振っていた。店内にはパラパラと人がいる。巽がいる席の一つ手前のテーブルには眠っているのか、俯き加減の金髪の男。その横の席には制服姿の女子高生たち。窓際にいる男子高校生らしき男は机に向かって勉強しているようだった。あとはサラリーマンが数人。
初めて会ったのが葬式だったせいもあり、スーツのイメージがあったが今日はラフなシャツ1枚だけだ。少しだけ広めに開けた胸元から見える鎖骨が眩しい。
麻耶は軽く頭を下げて向かいに腰掛けた。
「麻耶さん雰囲気違うね」
人懐っこい笑みを浮かべて巽が言った。
「へ、変かな」
昔買った一張羅のワンピースを着ているせいもあり、葬式の時よりも幼く見える。
巽は目を細めて微笑んだ。
「そんなことないよ。かわいい」
麻耶が耳まで赤くなる。こんなこと囁かれたのはいつぶりだろうか。
注文を聞きにきた店員にふたりともコーヒーを注文し、巽が本題を切り出した。
「旦那さんの借金のことなんだけど」
「は、はい」
傍に置いた黒い革のバッグから書類を取り出す。きちんとファイルに整理された書類を見て、麻耶は安心感を抱いた。
話を聞く限りちゃんとした金銭のやり取りじゃないようだったが、きっちり書面は交わしているようだ。
「これが借用書ね」
一枚の紙を滑らせる。借用書には金額と借入人、連帯保証人、貸付人の名前が記されている。貸付人の名前は、巽ではなかった。会社の別の人間なのだろうか。
「こっちが返済の確認書類」
こちらの書類には肇が今まで返してきた金額が載っている。
「なるほど...」
「月10万円って書いてあるけどそこまで多額じゃなくていいよ」
巽がペンの先で返済金額を指した。
「600万円だから月3万くらい返してくれたら嬉しいんだけど」
月3万だったら、どうにかできそうだった。
「それならなんとか....!」
「OK。あ、あともしそれより少ない月ができても全然問題ないからね。今月は2万でいいですかって連絡入れてくれれば良いよ」
甘い。なんでそんなに甘くしてくれるんだろう。
「条件甘くて怖い?」
心の中を読まれたような言葉にびくりと肩を揺らす。はい、とも言えず黙っていると巽は目を細めた。
「麻耶さんが可愛いからだよ」
「えっ」
聞き間違いかと思った言葉を確認しようと顔を上げると、色素の薄い瞳とぶつかった。
また心臓が高鳴る。
「じゃあそういう感じなので、返済は月3万円で。毎月25日に取りに行くのでいい?振り込みめんどくさいでしょ」
「...それで大丈夫です」
回収に来てくれるということは毎月会えるのだろうか。
「それでさ、会社の方だけどどうするわけ?」
「会社...?」
突然話題が変わって首を傾げる。
「自動車整備会社だよ」
「あ....」
すっかり忘れていた。副社長の男が自分が回すからまずは身の回りのことだけ行ってくれと言ってきてからずっと放置したままだった。
「多分だけど名義は麻耶さんになってるんじゃないかな?権利譲渡するなら早めにしておくのがいいと思うよ」
「でも私、旦那の会社で仕事もしてて...」
「これから先も続けるつもりなの?」
「は、はい.......」
そう頷いてから、旦那が死んだ今、あの場所に行ってどんな顔をしたらいいのかわからなくなった。気まずい思いは正直したくない。
「仕事も見つからないですし、副社長に譲渡してそのまま雇ってもらおうかな....」
何も考えていなかった。環境が変わると考えなければならないことが多くなって嫌になる。
麻耶の陰鬱な表情を汲み取った巽が、無防備に机に放り出された手をそっと両手で包んだ。
「本当、無理しちゃダメだよ。仕事が見つからなかったら返済も待てるから」
麻耶は再び胸が高鳴ってしまった。こんな感情になっている暇は無いのに。
彼がどう考えているのかはわからない。でも、偽りだったとしてもこの優しさが嬉しい。
麻耶は力無くその手を握り返した。
「ありがとうございます」
「いいの。あ、そういえばUSBって見つかった?」
麻耶の目が泳いだ。どうしよう、このまま話したほうが良いのだろうか。
でも、売れるならちゃんと売りたい。
「いえ...まだです。すみません」
「うん。じゃあ硬い話はこのくらいにしよっか。俺はもうちょっと時間あるけど麻耶さんは?」
今度は巽がするりと手を引いた。
あっさり話を終わらせるということは、そこまで重要じゃないのかもしれない。
わずかな寂しさを滲ませながら麻耶はこの後も特に用事はないことを伝える。
「じゃあもうちょっと一緒にいようか」
人懐っこい笑みを再び作り、巽が言う。
その後、巽は他愛のない話をしてくれた。傷心している未亡人を気遣ってか、当たり障りのない内容の、でも楽しい話をしてくれたのだ。麻耶はその優しさが嬉しかった。
駆け落ちのような形で結婚した2人のことを見放していた親族を頼るわけにもいかなかった。身内の苦しさなんてものを話せる友達もいない。
1人で抱え込んでいたモヤモヤした何かが、払拭できている気がする。
「麻耶さん、ちょっと表情明るくなった」
頬杖ついて巽が微笑む。水滴がびっしりついてしまった空のグラスが横にずらされている。
「神谷さんのおかげです」
「巽でいいよ」
どきりとした。夫以外の男を下の名前で呼ぶことなんてほとんどない。呼んでも良いものか躊躇ったが、罪悪感を飲み込んで、そっと口に出した。
「巽...さん」
名前を呼ばれた巽が再び微笑みを浮かべた。
「いやーゾッコンじゃないっすか」
麻弥を先に帰らせた後、後ろの席に座っていた濤川がくるりと振り返った。
「まあね」
巽は店員呼び出しボタンを押してメニューを開く。
「しかも幸薄げな美人!ときた〜いいな〜」
「良くねえよ」
「え〜!そういやその借用書本物なんですっけ」
「一応本物だよ」
カバンの中に書類をしまいながら巽は煙草に火をつけた。
窓際の席にいた男子高校生が立ち上がって、巽たちの席へやってくる。
「濤川声でかいっす」
灰賀だ。
「灰ちゃん、男子高校生めっちゃ似合うね」
「去年まで現役だったんで」
柳に風というように巽の揶揄いを流し、濤川に背を向け、巽と相向かいになる席に座った。
「おい灰賀邪魔だよー」
濤川がそう言って席を立ち、コーラのグラスを持ちながら移動してきた。
「ここからどう詰めるんすか」
「俺が見た感じ、あの未亡人はUSBに心当たりアリだね!」
濤川が声をひそめた。
「まあね〜俺も麻耶さんはUSBのことは知ってると思うんだ〜...あ、メロンソーダで。あと伝票まとめてもらえますか」
先程までバラバラで居た客が一堂に介していて店員は困惑していたが、お構いなしに巽が注文した。
「俺はコーラフロート」
「ブラックコーヒーで」
便乗して残りの2人も注文する。
店員が去ったところで、再び巽は口を開いた。
「どうにか早めに回収しないとヤバいからね〜。麻耶さんがどこまで何知ってるかわかんないから下手に動けないし」
「肇さんがヤベえこと首突っ込んで消されたとかわかってなさそうっすよね」
「濤川、声デカい」
「流石に報道通りで捉えてるでしょ。通り魔殺人事件って流行ってるしね」
短くなった煙草を灰皿に軽く押し付ける。
「わざわざ報道されるやり方したのに、肇さんのお仲間は顔出さないし。今回はシブいよ」
あーあ、と伸びをしながら巽は欠伸した。
「葬式もそれらしき奴ら居なかったですしね」
灰賀が消しきれていない煙草の吸い殻を摘んでしっかり灰皿に押し付けて消した。
「まあひとまず、肇さんがやらかしたことの弁償代は奥さんにどうにか払ってもらうとして...データは俺が直接探しちゃおっかな〜」
「強盗っすか?!」
濤川の後頭部を灰賀が殴った。
「いてえ!何すんだよ!」
「お前がバカだから殴った」
2人の様子を見ながら巽は目を細める。
ちょうどその時、注文していた飲み物が届いた。
四十九日。
あれからビルの受付仕事をしながら、休みの日にはいらない荷物を片付け、時々夫の会社に顔を出して、忙しい日々を送りながらどうにか引っ越しが完了した。
引越し先に悩んでいることも巽に相談した。頼れる友人が出来たような、もしくはそれ以上の存在ができたような気になって、細かいことも巽に相談するようになってしまった。迷惑じゃないか不安になるが、彼が構わないというのだから甘えてしまってもいいだろう。
引越し先についても巽は良い不動産屋を選んでくれた。
女性1人だからちゃんとしたマンションがいいよ、と巽は言ってくれたが、正直そこまでの余裕はない。
立地と家賃を重視して、古い木造アパートの1LDKを借りることにした。和室と洋室の2部屋だ。
仏壇は立派なものを買えなかったので四十九日は自宅でこじんまりと行う。
後からぐちぐち言われるのも嫌だったので親類に報せを出したが、ほとんど訪れないようだ。かってそのほうが気が楽で良い。
僧侶をお呼びして、参列したのは故人の母親と、自分の兄夫婦と、会社の人間が数人だった。
巽は、納骨のタイミングだけ来るらしい。
法要を終え、お寺の集団墓地に納骨し、会食は無くそのまま解散という流れになった。
結局、巽は納骨の時になっても顔を出さなかった。仕事で忙しいのかもしれない。
こんな時ほど会いたいのに。麻耶は胸の中が重くなった。
葬式ほどではないが、くたくただ。
お寺を出たところで麻耶が深いため息を吐いてると後ろから声をかけられた。
「麻耶さん」
デジャヴだ。葬式の時と同じ光景だ。
喪服に身を包んだ巽が微笑んでいる。
その顔を見て麻耶は安堵し、思わず駆け寄った。
「巽さん」
「間に合わなくてごめんね。疲れたでしょ。家まで送っていくよ」
麻耶は顔を綻ばせて頷いた。
「ありがとう」
お金を持ってる人だとは思っていたけれど、ここまでだとは思っていなかった。
真っ黒いぴかぴかのベンツの鍵を開けながら、巽が「乗って」と声をかけた。
緊張しながらも、助手席に座る。シートもふかふかだった。
「麻耶さんの家、どこだっけ」
カーナビを操作している巽に住所を伝える。素早くそれを入力して、巽はハンドルを握った。
「ちょっと遠いね。寝ても良いから」
どこまでも優しい。この人が夫だったらどんなに素敵だろう。微睡みながら、そんなことがよぎった。
車で20分ほど走り、木造のお世辞には新しいとはいえないアパートの前に到着した。
黒塗りのベンツでは目立つかもなと巽は後悔しつつ、家の前の空いている駐車場に停めた。
「麻耶さん着いたよ」
助手席で寝息を立てている麻耶の肩を揺らす。
「あ...ごめんなさい」
寝起きで申し訳なさそうにしている表情があどけない少女のようだった。
「いいよ」
巽に恥ずかしいところを見せまいと、繕おうとして表情を居なおす。シートベルトを冷静に外し、ドアに手をかけようとした麻耶の手を、巽が握った。
「麻耶さん」
巽がじっと麻耶を見つめる。
嗚呼またその目だ。熱っぽい、心の奥まで見透かすみたいな目。
「なに、巽さん」
触れられた手が熱くなる。
麻耶は鼓動が早くなるのを感じた。
「ううんなんでもない」
そういうと巽はいつも通りのにこやかな顔になり、手を離した。
麻耶より早く車を降り、助手席のドアを開ける。
こういう、一つ一つの仕草が麻耶にとっては嬉しい。自分をちゃんと女性として見てくれている気がするからだ。
「あ、ありがとう」
喪服のスカートの裾を直しながら車を降りる。
目の前にあるアパートを見て、麻耶は気恥ずかしくなった。
こんな格好いい人を、こんなボロボロのアパートに送らせるなんて。
「ねえ、俺もお仏壇に手合わせたい」
巽が言う。
もう少しちゃんと掃除しておけばよかった。
古い家に彼を上げるのは少し気が引けたが、断る理由もないと思えば仕方なく麻耶は頷いた。
黒檀の小さな仏壇には小さな遺影と位牌と線香立てしかない。必要最低限の準備しかしていないようだ。
仏壇は日の当たらない和室の一角に座している。焼けた畳の上に板を敷き、その上に設置したようだ。
麻耶がそこまで夫に対して愛情深くないのは何と無くわかっていたが、部屋の奥に即席で作ったような仏壇を見て確信した。
この部屋も、そもそも仏壇のことなんて考えずに借りたんだろう。そういう間取りだった。
1ヶ月ほど住んでいる家には生活感が垣間見得ていた。
仏壇のある和室に小さなちゃぶ台が出ている。僧侶や参列者にここで茶を出したのだろうか。
そうだとしたなら相当参列者は少なかったのだろう。
そんなことを考えながら、線香をあげ、両手を合わせた。
故人を、特に弔う義理はない。
むしろ、自分たちの手によって殺されたことをどんな気持ちで見ているのか気になった。見えないだけで、目の前で憤怒の形相をしているかもしれない。
――でも、悪いのは肇さんだからね。
巽は心の中でそういうと、軽く頭を下げる。
麻耶が急須と湯呑みを持ってきた。
「巽さん、良ければ」
和室の古びた雰囲気として喪服に身を包んだ幸の薄い未亡人の様子が背徳的だった。
肇がデータを盗んだ時からなんとなくそんな予見はしていたが、この未亡人は、そのうち自分の言いなりになる。
仕事だと割り切る反面、夫の死だけが原因ではない淋しさを称える麻耶を、巽は嫌っていなかった。
――少し早い気がするけど、まあいいか。
ちゃぶ台に茶器を置いた麻耶の腕を引っ張った。
麻耶が体勢を崩し、畳の上に手をつく。
巽と麻耶の顔が、近くなった。
車で触れられた時からうずいている麻耶の身体が一層熱くなった。
「ねえ麻耶さん」
巽に名前を呼ばれて、我慢できない。
麻耶は縋り付くようにして巽の唇に自分の唇を押し当てた。
一瞬驚いた表情を見せた巽だったが、そっとそれを受け入れて麻耶の細い体を抱きしめた。
遺影の中の旦那と目が合ったが、知ったことではない。
線香の香りが強くなった。
熱を帯びた舌同士を絡ませながら巽が麻耶の身体を畳の上に押し倒す。
「いいの?」
「巽さんが良い」
麻耶はもう一度自ら唇を重ねた。
日本の宗教には詳しくないが、だいたいどの国でもこういうことは禁忌だとかされているのではないか。
旦那の仏壇の前で未亡人を慰める。
草臥れた畳の上で眠ってしまった麻耶の姿を見て少しだけ冷静になった。
意識していなかったがほとんど服を脱がせなかったせいで喪服に皺が寄ってしまっている。
「麻耶さん、服皺になるよ」
皺になるようなことをしたのは自分なのだが。
半眼の麻耶が巽の後頭部に手を回して引き寄せた。
再び唇が触れる。
旦那ともセックスレスだったのか、麻耶は見た目とは裏腹に淫らな女だった。罪悪感と背徳感を彼女も楽しんでいるようだ。
その方が都合がいいので巽も応えてあげることにした。
「巽くん、好きよ」
艶声を上げながらそう漏らす麻耶の唇を今度は巽が塞いだ。
唇の隙間から吐息が漏れる。
「喪が明けてもないのに、悪い奥さんだよね」
意地悪くそう言うと麻耶は悦んだ。巽はすぐにこの未亡人の性質を見抜くことができた。
神谷巽は、天性の女たらしだ。いや、人たらしなのかもしれない。
大体の人間が何を求めているのかわかるし、何をしてほしいのかがわかる。
必要があれば、それが自分自身であっても与えてあげたくなる、偽善的性質も持ち合わせていた。
麻耶のことは、仕事として抱く必要があったのがほとんどだが、少しだけ同情もある。
でも、仕事として関わるのだったら、自分は蛇でなければならない。己の名に入った巳として。
麻耶は熱っぽい言葉も、行為自体も、ここまで盛り上がるのも久しぶりだった。
肌と肌の触れ合う温度は心地が良い。どこかにある罪悪感が良いスパイスになっている。
葬式で会った時から、本当はこうしたかった。満たされていく感覚が愛おしい。
それで巽は欲しい言葉や欲しいものをくれる。死んだ夫と違って優しい。
このひとさえいれば、もう他は何もいらないと思った。
横で眠る麻耶を起こさないように巽はスマホを開いた。
メッセージアプリを開き、ピンで留めてある一番上を開く。
『1ヶ月くらい帰れないけど、寂しく思わないでねhoney』
ふざけた絵文字と共にそれを送ると、ロックボタンを押して画面を消した。
麻耶が旦那の会社の権利を完全に譲渡したのは四十九日明けてすぐのことだった。
それから数週間ほどは旦那の会社の事務をしていたが、譲渡した副社長からのセクハラや他の社員からの目に耐えられなくなって辞めた。
お金の面は不安だったけれど、精神面では安定している。
恋は女を盲目にするという。
好きな男がいるというだけで、狭苦しい1LDKのボロアパートのことも大好きになれる。
「ただいま巽くん」
受付の仕事でも、八瀬さん綺麗になったねなんて言われる。これもきっと恋をしているせいだろう。
「おかえり〜」
毎日居てくれるわけじゃないが、かなりの頻度で家に来てくれる。合鍵も渡してしまった。
巽が既に家にいてくれることもあれば、自分が帰宅した後に巽が来てくれることもある。
彼にも仕事があるからタイミングはまちまちだったが、それでも嬉しい。
「麻耶今日もかわいいね」
この人といるときは、自分に自信が持てる。
玄関まで出てきた巽に背伸びをして唇を重ねる。
今日は仕事が早く終わったのだろうか。いつもよりラフなスウェットを着ていた。
「巽くんてば、ほんと調子いいんだから」
気恥ずかしそうに微笑みながら麻耶は買ってきたスーパーの袋を台所に置いた。
「ご飯作るから、待っててね」
巽は居間に戻りながら、しばらく会っていない織田ルカの姿を思い浮かべた。
――だめだ、人間に戻るな。
兄に言われた、仕事中は人間になるな、という言葉を思い出す。
軽く頭を振って、笑いながら「やったー」と喜んだふりをする。
ソファに身を沈めて、キッチンで支度をしている麻耶を横目にスマホを開いた。
「お土産買って来てねdarling」
メッセージに返信はしていない。連絡を絶ってからもうすぐ1ヶ月ほど経ってしまう。
巽はすぐにそのメッセージアプリを閉じた。仕事に集中しなければならない。
「麻耶、仕事順調?」
仏壇のフチには薄くほこりが積もっていた。
月明りに照らされて、巽の吐いた煙がゆらゆらと揺れる。
雑に敷いた煎餅布団は、背中が痛くなる。
腕の中にいる麻耶にそう問いかけて、彼女を見た。
「仕事…?うん…」
歯切れが悪い。巽は麻耶の顔を覗き込んだ。
「嫌なことあったの」
「そういうんじゃないけど、その、やっぱりお金的に厳しくて」
麻耶は案外律儀な性格をしているようで、今のところ2回返済日がきているがきっちりと3万円を返した。
巽の読みでは、返済額を減らして欲しいと言われるはずだったのに、だ。
「あー昼の仕事だけじゃ厳しいよね」
本人は知らないが、巽は麻耶の収入がいくらなのかを調査していた。
ここの家賃や光熱費を考えると家計は火の車だろう。
「仕事、探したいけど…」
巽くんといる時間が減るし、とは流石に言えなかった。
だらしない女だとは思われたくない。いまさら体面を保っても仕方ないとはいえ、それでも少しでも良く思われたいと思う。
巽は枕元に置いた灰皿を手繰り寄せて、灰を落とした。
ちらりと見えた背中の和彫りの龍。何度か見て知っているが、彼がそういう筋の人間なのだという確信が持てない。
「麻耶さ、俺の仕事手伝わない?正確に言うと俺の店だけど」
思いがけない言葉にハッと顔を上げる。
「えっ」
「バーというか、スナックなんだけどさ。今女の子足りなくて、麻耶綺麗だし良いと思うんだよね」
巽の店で働けば、一石二鳥かもしれない。巽にも会えるし、お金も稼げる。
「私なんかで出来るかな…?」
不安を滲ませる麻耶の額に口づけを落とし、巽は目を細めた。
「大丈夫だよ。一回遊びに来てみてよ」
「う、うん」
嬉しいような、怖いような感情が入り混じる。新しい環境に身を置くのが怖いのか、それとも後戻りができないところまで来てしまったような感覚だから怖いのか、わからない。
ただ、目の前の巽は綺麗で、ひたすらに愛おしい。それだけで充分だ。
「頑張りたいなぁ」
ぼんやり呟くと、巽が麻耶を抱きしめる。肌の触れ合う面積が広くなった。
「麻耶はもういっぱい頑張ってるでしょ」
「巽くんが居てくれるからだよ」
巽は、蛇のように目を細めた。
「巽さん、例の八瀬の仲間が出ましたよ」
麻耶のアパートから組の事務所に帰ると、ちょうど外から帰ってきた灰賀が声をかけてきた。
「あ、マジか」
「出たって言っても死体ですけど」
「誰が殺った?」
巽が灰賀を睨みつけた。
「さあ、わかりません。殺し方的には素人っぽいっすけど。そいつは暴走族とかにも喧嘩売ってたらしいんで、そっちにやられたんじゃないかってところです」
背中で聞きながら、巽はポケットから煙草を取り出した。
すかさず灰賀が火をつける。
「は~生死は良いとして、データの方はどうだったの」
「足取り洗ってるんですけど、多分あの未亡人のUSBしかないっぽいっす。データのコピーとかもなさそうです」
灰賀はちらりと巽の首筋についた吸い痕を盗み見た。
「あーじゃあ麻耶から回収できれば終わりって事か」
「はい」
ふう、と煙草を吐き出す。事務所内に巽の煙草の匂いが充満した。
「潮時だね。肇さんの借金返してもらうにも今のままじゃ難しいから、明日ウチの店に入れることにした。スナックの方に行かせる予定だけど、本人がもっと稼ぎたいって言うならソープでもなんでも入れていいよ。データの方も、明日くらいに回収してくる」
ひとりごとのようにそう呟くと、灰皿に強く煙草を押し付けた。
「おい、巽」
ちょうどそのタイミングで、時任が顔を覗かせる。
ちらりと巽を見て、その首についた痕を目ざとく見つけた。
巽の方へ近寄るや否や、握った拳がその顔を襲う。
ガシャン、と派手な音を立てて巽はパイプ椅子の並ぶ床へ倒れ込んだ。
灰賀は素早く机をずらして場所を開けた。
「殴りあうわけじゃないよ灰ちゃん」
鼻からひとすじ赤い血が垂れる。
「てめえ、まだ自己犠牲みてえなことして仕事してんのか。自分を安売りするんじゃねえよ。リスク考えろ、公私混同してんじゃねえぞ」
「…すみません」
「ワキ締めて仕事しろ。てめえは平の組員じゃねえんだよ。嫁にする気ねえ女に変な優しさみせるな。女に寝首をかかれたらどうする?飯に毒入れられたらどうする?甘え仕事してんじゃねえぞ」
時任の言うことは最もだ。黙って頭を下げた。
時任は足元のパイプ椅子を足で退かし、事務所から出ていった。
「本当にケリつけなきゃだな」
小さく呟いた巽の横にしゃがみ込み、いつの間にか救急箱を持ってきた灰賀がいた。
無言で赤く腫れた頬に湿布を貼り、無理矢理鼻の穴にティッシュを詰める。
「自分でできるよ灰ちゃん~」
「とりあえず、巽さんはデータの回収を最優先にしてください。女の売り先はうまくやっときます」
「ありがと~優秀な後輩がいると助かるねえ」
「家帰ってないんでしょ」
へらへらと笑っている巽を見ながら言う気のなかった言葉が出てしまった。
「え?」
「ここんところ休んでないし心配です。さっさと家帰って休んでください」
救急箱を素早く閉めると、灰賀は立ち上がった。
「あと、片付けは自分でして下さいね」
ぐちゃぐちゃの事務所を見回して、巽は肩をすくめた。
麻耶は不安でいっぱいだった。
金になるかもしれないデータを渡してしまったからじゃない。顔に湿布を貼って、夜中に訪ねてきた巽のことで不安になっている。
傷は、仕事の上司に殴られてできたものだという。しかもその原因はUSBデータが見つからないからだとも言った。
いつも通りの愚痴っぽい雰囲気でそういっていたが、きっと自分が持っていることを何となくわかっているようだ。
罪悪感に駆られる。
早めに渡しておけば、巽が傷つかなくて済んだかもしれない。
見つからなかったらもっとひどい目に逢うかもしれないと彼は言った。
思い出したかのように仏壇を開け、位牌の横に転がっていたUSBを、渡す。
へたくそな演技がバレているかもしれないという不安と、ずっと嘘をついていて嫌われてしまったかもしれないという不安。
USBを受け取って、巽はいつも通り優しい微笑みのまま玄関先で身をひるがえして帰ってしまった。
いってきますのキスもしてくれなかった。不安になる。
このままどこかに行ってしまうんじゃないかという不安。
黒い塊を抱えたまま、布団に入った。ひとりで入る布団は、妙に冷えている。
月明りもない、真っ黒な夜だった。
翌日、巽に教えられた店に行くと、巽の姿は無かった。嫌な予感は的中した。
灰賀と名乗る青年が料金などの説明をしてくれるが、頭に入ってこない。
「巽くんは…?」
思わず声に出すと、灰賀は感情のない目を麻耶に向けた。
「あの人はアンタの頑張り次第でこっちに戻ってこられるから頑張って」
「どういうこと?」
「アンタがやらかしたことの責任取って遠くで仕事することになったから。2人であわせた稼ぎ次第でアンタたちは会えるよ」
「どのくらいが目標なの…?」
「アンタは月200万。あ、借金あるから203万か」
思いがけない数字を提示され、麻耶は目の前がチカチカした。
「そんな…それじゃあ、ここのお給料でも足りません…」
こんなに不安で恐ろしいと思ったことはない。しかも誰かのために。
「巽さんは400万。ほんとは300万ずつだったんだけど、アンタに負担掛けたくないって言って多く支払う約束してるんだよ」
灰賀が低い声で囁く。麻耶は、こんな時なのに巽の優しさがたまらなく嬉しくなった。
「巽くんが頑張っているなら、私も頑張らなきゃ…」
「もっと稼げるところも紹介できるよ」
僅かに灰賀の瞳が細くなった。
「一件落着ですかねえ」
濤川が巽の髪にブリーチ剤を塗りながら呟いた。
「どうにかって感じじゃん?」
適当な雑誌を眺めながら返事をした。
「それにしても巽さんもえぐいっすわー、もう会う気ないんでしょ、麻耶さんと」
「ないよ」
「いくら稼いでも会えない相手の為に風俗行きかあ」
頭皮がひりついてくる。しかし、我慢できないほどではない。
「借金の600万返したらあとは開放してあげてもイイとは思うんだけど」
「あの年齢で風俗行ったら足洗うのきついの、わかってるでしょ巽さん」
「あはは、まあねえ」
乾いた笑いをこぼしながら巽は僅かな同情心を吹き消した。
「受け入れてもらうしかないね」
「そういいつつ、町で会ってもバレないように金髪にしたいって言ってきたの巽さんじゃないですか~」
ブリーチ剤の香りが強くなってくる。昔美容師だった濤川は、自分の髪も自分で染めているらしい。
「会っちゃったらぜーんぶ終わりじゃん」
「こんな男前巽さんくらいしかいないからバレますよ~」
ほとぼりが冷めるまではしばらく事務所に引きこもって仕事しようかな、と思った。
「しばらく置きますね~」
段々と色が抜けていく髪と同時に自分の中の整理もついてきた。時任に殴られた頬にはまだ湿布が貼られている。
プライベート用のスマホを出すと、約1ヶ月返事を出していなかったルカとのトークルームを開いた。
「やっと終わったよ、今日の夜帰れるんだけど、いる?」
手早く打ち込んで送信ボタンを押す。
――お土産か、何がいいかな。やっぱりチーズケーキがいいかなあ。
「あ、巽さん彼女っすか!」
手元を覗き込んできた濤川が嬉しそうに聞いてきた。野次馬精神があるのだ。
「うんまあ、そんな感じ」
誤魔化しようも、説明のしようもない関係性だから、そんな風にあいまいに答えた。
――急に金髪になってたら、ルカはどんな顔するかな。早くルカのご飯食べたいなあ。
月明りが妙に優しい夜だった。
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