【シキケン】神谷組、2月。

「いつの間にかウチで一番やべえやつになっちまったかもなあ」

そう笑いながら猪口を傾けたのは丑雄である。

神谷丑雄はこのあたりのほとんどを仕切っている神谷組の本家組長だ。

半年ほど前に跡取り息子である虎之介を亡くしてから殆ど隠居していたというのに、久しぶりに顔を出した。

「まあ、何を隠そう、親父と若頭の血縁ですから」

空になった猪口に日本酒を注ぐのは、元若頭補佐の時任だ。

若頭・虎之介が毒殺されてから、若頭補佐からその枠に収まったのは時任である。

本人はあまり乗り気ではないらしいが、若頭となればかなりの出世だ。役所に胡坐をかいても良いというのに、この男は謙虚な姿勢を崩さない。

「なあ時任。どう思う、あの小僧を」

同席しているのは本部長以上の時任・赤井・鮫島・本田である。

幹部会、などと堅苦しい名称を付けるような席ではない。あくまで飲み会のようなものだ。

時任は問いかけにちらりと全員の顔を見回してから、口を開いた。

「俺はあそこまで化けるとは思っていませんでしたよ。初仕事の後には泣いてましたから」

「それが今じゃ一番の鬼になっちまったな」

酒が入って上機嫌なのか、赤井が笑った。

「龍じゃなくて鬼だったってか」

丑雄もそう言って笑う。目は笑っていない。座にはどこか緊張が走っていた。

「親父――」

「時任。まあ待て」

「良い。時任に話させろ」

一度制した赤井が丑雄に往なされる。

「親父、俺は若頭を降りてえです。しかしこれは組抜けたいとかそういうんじゃなくて、俺よりも若頭にふさわしい人間を見つけたから、俺はそいつを支えたいんです」

座が静まり返る。

「親父、巽を若頭に置きませんか」

緊張の糸が張り詰めた。

時任は昔から考えていたことだ。虎之介が組長になった暁には、自分が押し上げて巽を若頭にするつもりだった。

順序が狂って自分が若頭になってしまったが、その気持ちは変わらない。

「あのクソガキを頭に据えて、舐められるんじゃねえのか」

「若‥‥‥虎之介さんも、若くしてそうでした。俺たちがバックアップします」

「あいつはまだ甘えんじゃねえのか」

「ここ一年くらいの仕事ぶりからはそう思えません。組員からの信頼も厚いですから、組織としても上手くまとまるでしょう」

座にいる全員が黙って時任の話を聞いている。

次の瞬間、時任の顔に拳が飛んだ。

180㎝を越える身体が後ろに仰け反った。持っていた徳利が畳に落ちて、日本酒の染みが出来た。しかし、時任は顔色を変えない。

「てめえ、若頭の座をやすやすと年端も行かねえクソガキに譲るってのか。お前にはそんなにプライドがねえのか。おい」

「いえ、俺は巽がウチに入ると決まったときからずっと考えていました。予想外のことがあって俺は一度若頭になりましたが。あくまで俺の目標は巽を時期組長に据えることです」

「おい時任、なんでおめえはあのガキに肩入れするんだ」

丑雄は時任の胸倉を掴む。時任は丑雄の目を真っ直ぐ見た。

「若い時の組長に似ているからです。あいつなら、良い組を引き継いで行ける」

「‥‥‥ふ、ははは」

丑雄が緩やかに唇に弧を描いた。張り詰めていた座の空気が僅かに緩む。

「はははは、言ってくれるなこいつぁ‥‥‥。お前ら、どう思う」

時任から手を放しながら他の顔ぶれを見回す。

「巽なら俺も反対しませんよ。アンタによく似てるってのも同感」

舎弟頭の赤井を筆頭に、その場にいる全員がうなずく。

「そうか」

その様子を眺めて、丑雄は僅かに目を伏せた。しかしすぐにいつもの調子に戻った。

「まあいい。おい、酒でも持ってこい。減ってるぞ」

時任も薄く微笑んで席を立ち、部屋を出ていく。

「にしても親父、殴るのはやりすぎじゃねえですか」

障子が閉まったのを見て鮫島が言った。

「馬鹿言え、役職辞退なんつーのは腰抜けにしか許されねえんだよ。腰抜けなんか組に入らねえから本来だったら指詰めて破門のところ、拳一発で済んでんだから優しいもんだろうが」

答えない丑雄の代わりに赤井が笑いながら言った。本田も横で笑っている。

「時任は、偉く信頼できる男ですからなぁ。歯向かわずどんな仕事もこなしてきた男がねえ。あんな風に言うんじゃねえ」

「実際、親父もそう考えてたんだろ」

「そりゃあ当たり前だろう」

そんな話をしながら、いつの間にか時計の針はてっぺんを越していた。



神谷組には地下室がある。窓ひとつない地下室は誰からも見られる心配がないのが良いところだ。

「ちゃんとゲロってくれないとこっちも困るんだよ」

巽はぴったりとしたビニール手袋を嵌めた手で男の髪を引っ張り、顔を持ち上げる。

男は手足を縛られた状態で血だまりの中、床に倒れていた。

良く「整った顔」と形容される彼の顔には血がついている。にっこりと微笑みを浮かべているが隙のない空気でそれは笑顔に見えない。

巽の後ろには数人の黒いスーツの男が立っている。

「このままだと全部歯がなくなるよ」

小さな裸電球に照らされた血だまりを指さし、男に見せる。彼の歯が数本血だまりの中に転がっていた。

男は恐怖からか、何もしゃべらなくなっている。それでは困るというのに。

この血だまりは、彼の血ではない。彼の前には2人ほど、同じ状況になって二度と陽の目を見ることができなくなった者がいた。

かれこれ6時間ほど、巽は地下室で「仕事」をしていた。

焦る必要はない。時間はたくさんある。そう思いながら、頭の奥では久しぶりに同居人の作る食事が摂りたいと考えていた。

「巽」

鉄製のドアが開き、時任が顔を覗かせる。

名前を呼ばれて巽は振り向き、男を再び床に放った。

「時任さんどうしたんですか、珍しいですね」

後ろに控えていた男の一人、――灰賀がタオルを手渡す。外した手袋を灰賀に渡してからそのタオルを受け取り、頬についた血を拭った。

巽が時任の方に近づいていくと同時に、スーツ姿の若衆たちが床に転がった男に蹴りを入れる。

「てめえ吐けやゴルァ」

その声を背中で聞きながら巽はタオルを灰賀に返した。

「急ぎの用ですか。上で聞きますよ~。灰ちゃん、後はよろしく~ダメそうだったらバイバイで!」

友達との飲み会の後みたいだ、と思ったが灰賀は口にせず無言で頭を下げた。



結局男は僅かな情報を口に出した後、絶命した。

残留物の掃除は若衆のやる仕事だ。人体の欠片を拾い集めながら、一仕事終えた空気が漂う。

「巽さんマジこえーっすよね。いつもあんなにいい人なのに」

「絶対敵には回したくねえよな」

「6時間だぜ6時間!見てるこっちがきついぜ~」

巽は人当たりが良い。少なくとも組員に対して嫌な態度を取ることはないのだ。

そのせいもあって、部下からは慕われている。

「怒鳴ったりしねえのがまた怖いって言うか」

「わかる。いっそヤスさんみたいに怒鳴ってくれた方が怖くねーよ」

「つか組長の息子なんでしょ?オーラが違うもんオーラが」

仲間たちの話を聞きながら灰賀はぼんやり酔っぱらって自分にもたれ掛かってきた姿を思い出していた。

「女にモテてるけど本命作らず遊んでるだけなのもかっけーし」

女じゃなくて男がいるんだよな、たぶん。

灰賀はバケツに水を汲んだ。

「神路町のナンバーワンの子いるじゃん」

「神崎みいゆだっけ」

「あの子巽さんにゾッコンだからね。逆枕狙ってるらしくて」

「だからあの子あんなに頑張ってんの?すげえや」

「やっぱ女のランクもちげーな」

巽さん、の話は絶えない。

「最近キテるモデルの子もいるじゃん、天音ひな子」

「あの子可愛いよね」

「あの子も巽さん狙ってるらしいよ。この間店に遊びきてLINE押し付けてたわ」

「うわーまじかよ好きだったんに!兄貴分のお手付きか~」

「あれは流石に抱くよな~」

男子高校生みたいな会話だな、と灰賀は思った。

「水流すよ」

「あ、ありがと灰賀!」

灰賀はバケツの水を床に撒いた。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。