端倪すべからず

「アンタのその目、その目が気持ち悪いのよ」

嫌な夢を見た。

4畳半のアパートに差し込む日差しで目を覚ました界人は、ゆっくりと半身を起こした。

呼吸に合わせて上下する上半身には、無数の傷が刻まれている。そして、首から背中にかけてメドゥーサのタトゥー。背中一面に、メドゥーサの姿があり、こちらを睨みつけている。首の方には、彼女の髪の蛇たちが這い上がっているデザインだ。

畳の上に適当に放り投げていたTシャツに袖を通す。

支給された布団は、お世辞にも良いとは言えない、ぺたんこの煎餅布団だ。しかし、界人にとってさほど問題ではなかった。

嫌な夢を見た。

僅かに乱れた呼吸を落ち着ける。

「もういないんだから」

そう、もう存在しない人間たちに縛られる必要はない。


灰賀界人は、昔から自分と人とが違うことを認識していた。

恵まれていた体躯は特にそれをありありと自覚させてくれたし、怪奇な目で見られることで己の異端さを客観視できていた。

おかしいと思ったのはいつからだろう。

小学生の時にクラスで飼っていたウサギが死んだときだろうか。

その時、皆が悲しみに暮れている顔を見てよくわからなかった。

ウサギの肉が美味しいと本で読んだことがあったので、「勿体ないから食べてみたい」と発言した。その時のクラス全員と教師の目が忘れられない。

自分は普通のふりをしなければいけないと思った。

気を付けてはいるのだが、どうにもうまくいかないことが多い。

一度だけ、好意を抱いた同級生がいた。その子のことを知りたくて、家までついていったこともある。仲が良いと思っていたが、彼に「気持ち悪いからもう遊ばない」と言われてしまった。

もう遊べないなら何か欲しいと思って、彼の髪の毛をはさみで切り取った。

彼は泣き叫び、親も呼ばれて酷い騒ぎになった。彼と、駆けつけた大人たちの目が異様だった。

ただ、彼と仲が良かった証拠が欲しかっただけなのに。

それから教師も親も同級生も、皆「そういうもの」を見る目で見てきた。

「アンタは行動や発言に移る前に一度考えなさい。考えてることを表に出しちゃダメ」

顔も思い出せない母は、そう言った。

一度考えてからなにかをする癖がついた。


中学にあがってからは特に気を付けるようにした。しかし、他人との違いは溝を深めていった。

少しだけ仲の良い友達ができた。自分を怖がらずに話しかけてくる善い人だった。その友人はバスケットボール部に所属しており、どんどん忙しくなって会う時間が減ってしまった。

ある時、友人が捻挫をして休部し、そのおかげで遊べる時間が増えた。そこで界人はあることに気づき、完治した友人を次の日階段から突き落とした。

怪我をすれば、部活に行かなくなると思ったからだ。

案の定、親を呼ばれ、酷く叱られた記憶がある。友人はもう、二度と口をきいてくれなくなった。

その事件をきっかけに、父は自分を殴るようになってしまった。

普段は特に気にかけもしないくせに、少しでも癪に触れば殴ったり、煙草の火を押し付けてきたりした。

両親のことはよく思い出せない。思い出すほど興味もない。

母は浮気三昧で、よく家に男を連れ込んでいたし、酷いヒステリックだった。父も外で浮気をしていたようで、夫婦仲も悪かったが、界人を虐待する時だけは息が合っていたように思う。しかし界人にはどうでもいいことだった。

金を出すのがもったいないから、という理由で修学旅行は行けなかった。

でもそれも、どうでもいいことだった。食事をして、観光地を見て回って、寝る。場所が変わっただけだ。

何かに執着してしまったら、ダメだ。

自分を受け入れてくれるところなんてどこにもない。

ある時から気づいた。それが当たり前だから、寂しいという感情も特にない。

もしかしたら湧き上がる何かがそれに値するのかもしれないが、通り過ぎてしまったらもうそのことも忘れてしまう。

両親から向けられる怒りも、正直理解していなかった。

お父さんは、殴ってストレス発散しているんだろうなとしか思わなかったし、お母さんは怒鳴ってストレス発散してるんだろうなとしか思わなかった。

何をしても泣かない、喋らない息子は親にとって恐ろしい化け物のように映ったのだろう。母はよく金切り声で「何とか言いなさいよ、言い返すことも出来ないの」なんてことを言っていた気がする。

父親は、敬語を使わないと怒った。母親は洗い物やゴミ捨てなどをやっておかなければ怒った。

言いつけを忘れた時には、ベランダに放り出されて一晩そこで過ごした。雪の降る日にベランダで眠ったこともあった。


しばらくして、学校から帰ってくると母と父が死んでいた。正確にいえば殺されていた。

あんなに着飾って偉そうにしていたのに、内臓をぶち撒けて醜い有り様で死んでいた。

汚い、と思う。

近くにあった凶器と思われる包丁を手に取った。家にあった包丁だ。こんなにあっさりと、これだけで人間は死ぬのか。

包丁を握りしめてぼうっと眺めていたら、異変を感じ取った隣人が入ってきて、勘違いされた。

警察を呼ばれて、連行された。やってないです、と言っても信じて貰えない。通報を受けて来た警察官が、昔髪を切った子の親だったからだ。

この子ならやりかねない、と言われた。

俺って、親を殺しそうだって思われてたんだ。

可笑しくなって、笑ったら、笑うなと怒鳴られた。

どうでも良くなったので、俺が殺しましたと、嘘をついた。

言われるがまま適当に少年院に入って、言われたことだけやって、つっかかって来たやつは殴り飛ばして、3年過ごした。劣悪な環境ではあったが、界人はどうでもよかった。

高校2年の秋になって院を出た。親類へも連絡が取れず、行くあてもなかった界人の前に、1人の人物が現れた。

その男は、「時任」と名乗った。そして、編入する剣ヶ崎高校の書類と、自宅の鍵を渡して来た。どうしても行くところがなかった時に連絡して来いといって名刺も渡された。

よくわからないけれど、そうした方がいいと言うので学校には行く事にした。

でも、制服を買うお金はなかったので中学の時の学ランのまま生活した。

校則違反だと言われたが、親いないんで、と言えば教師は黙る。

高校生活は特に楽しいことも悲しいこともなかった。編入して来た自分に話しかけるような奇特な人間も居なかった。親を殺した、という肩書もどうやらそれなりに噂として出回っているようだった。

「お前何考えてるかわかんなくて気持ち悪りぃよ」と言われたこともある。別にお前に気持ち悪いと思われても構わないと思った。

家にいると、汚い両親の残像が見えて嫌だったので、近くの雀荘に入り浸った。適当に頭を使って、その場限りの関係を楽しむ。暇は充分に潰れた。

学校へは行ったり行かなかったりだった。

学費は誰が出してくれていて、家の光熱費は誰が払ってくれているのかさっぱりわからなかった。

でも、どうでもいい事だった。


気づけば春になっている。

ふと、時任がくれた名刺が気になった。

神谷組と書かれたその名刺には住所が記載されている。

困ったわけではなかったが、興味が湧いたので行ってみる事にした。

桜並木を背に、写真を撮っている学生が多い。適当なスウェットに長身の界人を、誰も高校生だとは思うまい。

書かれた住所にあったのは、昔ながらの日本家屋だった。重々しい門には「神谷組」と表記されている。

見るからにやくざの本家、という感じだ。

やっぱりあの人、やくざだったんだと思いつつ、恐怖の感情は湧いてこない。

殴られたり絡まれたりするのだろうか、と考えながら足を止めた。

車道を挟んで向かいの道からぼんやり眺めていると、その門からゾロゾロと男たちが出て来た。

端正な顔立ちの青年を筆頭に、脇にある駐車場へ向かって行く。

界人はその青年を見て、よくわからない感情になった。

ーーあの人はなんていう名前なのだろう。

他人の名前なんて、気にした事はなかったのに。

初めての欲求に戸惑いながら、彼が乗った車が去るのを見送った。

「神谷…」

小さく呟いて立ち去ろうとした時、門からひとり、男が出てきた。

院の前で自分に名刺を渡してきた時任だった。

「あ」

時任の方も界人の姿を見とめたらしく、軽く顎をしゃくった。

ガードレールを跨ぎ、彼の方へ近づいていく。

「デカくなったな」

界人の上背を見ながら、時任は笑っている。

スーツのジャケットから煙草を出した。

思わず、ポケットのライターで火をつけてしまった。

「お前、キャバ嬢かよ」

低い声でそう言うと片頬だけで笑い、時任は煙草の煙を深く吸い込んだ。

「癖で」

「水商売やってんの?」

「いや。父親が煙草を持ったら火つけろって」

「なるほどな」

紫煙を吐き出す。青空にゆっくり溶けて煙は消えた。

「冤罪になっちまって悪かったな」

「は?」

時任の謝罪の意味がよくわからなかった。

「お前の両親殺したの、俺らなんだわ」

「あぁ」

「ああって、怨みとか無いの?」

そう問われて、困った。別に、怨んでもいないし、哀しいとも思わなかったからだ。

「別に、ないっすね」

「キモ座ってんな。…学校行ってるか」

「時々っすね」

何故この人は、こんなに普通に接してくるのだろう。昔からの知り合いのような、そんな空気感で話してくるこの男が界人は不思議だった。

「高校出るまでは、俺が一応金とかの工面はするから。お前に罪被ってもらっちまったしな」

「あー、もしかして色々金払ってくれてたんですか」

少しずつ合点がいく。

「ダセェからあんまり言いたくなかったんだけどな。まあ、そんな感じだ」

「ありがとうございます」

界人が軽く頭を下げる。その行動に、時任は少し驚いたようだった。

「礼を言われるようなこと、してねえよ。つうか、お前、何しに来たんだ?何か困りごとか?」

「いや。ただの興味です。あの、さっき出ていった人たちって」

脳裏にちらちらと過っていたことを問いかける。

時任は片眉を上げた。

「巽たちか?外回りの仕事に行っただけだよ」

巽、直感的にあの青年がその名前の持ち主だとわかった。

巽。忘れないようにしよう。

「俺がここに入りたいって言ったらどうしますか」

思いがけない界人の言葉を少しだけ考えた後、時任は口を開いた。

「ウチの組入るのは止めやしねえが、まずは高校を卒業してからだ。高校を卒業して、やることがなかったり、困ったりしたら来い。ここは最終手段にしろ」

「…わかりました」

そう言うと界人は軽く頭を下げてその場を後にした。


学校へ、少しだけ多く行くようになった。出資者の顔を見たというのが心象的には大きいかもしれない。

相変わらず学校では浮いていたが、ふと同級生の口から「たつみ」という名前が漏れた。

同級生の会話に耳をそばだてていると、どうやら彼らの言うたつみは、この学校のOBらしい。図書室で卒業アルバムを見たという。

その放課後、界人も図書室へ赴いた。直近5年くらいの卒業アルバムを手に取り、ぱらぱらとめくっていく。

2020年度の卒業生のアルバムに、その人物がいた。

3年A組 神谷巽。

界人はカッターで彼の顔写真の部分だけ切り取ってポケットに入れた。


卒業式には出なかった。教師たちに制服のことでとやかく言われて揉めたのと、面倒になったからという理由だ。

「卒業前にお前をボコりたかったんだよ。その目、その目が気に入らねえ」

卒業式の前日には、そんなことを言われてよくわからない同級生の不良と喧嘩した。残念ながら口だけだったようで彼らは界人の足元に転がった。

高校を卒業したからといって、特に自分の生活に大きな変化があるわけではない。

1年ほど前に、時任に言われた言葉を思い出す。

「高校を卒業して、やることがなかったら来い」

やることもないし、行くか。

しかし、あの態度だと素直に入れてもらえるとは思えない。

背水の陣で、彼らが拒めないようにしなければならない。


雨の日でないと、いけなかった。

両親が買ったマンションで一人暮らしをしていた界人は、「親殺し」としてマンション中から疎まれている。

早く引っ越せばいいのにとか、親戚の所にでも行けばいいのにとかそういう噂話は界人本人にも届くほどだった。

直接的な嫌がらせ行為はなかったし、下手に近所づきあいとかを気にしなくていいのは楽だった。

マンションの3階。界人はまず、若めのホームレスを見繕った。身長が高めで、自分に体格が似ている人物。探すのに苦労したが、一人だけそれに近い人物が当てはまった。

その人物を自分のマンションに住まわせた。彼が入居する前に家具を全て処分し、殆ど何もない状態にした。彼の髪型も同じにさせ、お前は今日から灰賀界人と名乗れ、と言った。そうすれば何も不自由なく暮らしてよいと告げた。ホームレスは快諾した。

界人は、顔を知られていない雀荘を転々として適当に暮らした。身分証明書はホームレスに渡してしまっていたので、後ろめたい店にしか行けない。

そんな暮らしをして2ヶ月ほど経ったとき、界人はホームレスに連絡した。

雨の降る、酷い日だった。

そのホームレスを、人気の少ない、切り立った海岸に呼び出した。

出会った時とは見違えるほど艶やかになって、少し肥えたように思える。

土砂降りの中、傘も持たずに海岸にいる界人を見て、ぎょっとしながらも、要件を聞こうとする。

と、その前に界人はポケットから金塊を取り出した。薄いゴム手袋の手の上で鈍く光る金塊に、ホームレスはごくりと唾をのんだ。

勿論、偽物だ。しかし重量はかなりある。

「とある筋から手に入れたんだが、しばらく預かってくれないか。怪しまれるといけないから、呼び出した」

子供だましのような手口だが、このホームレスは目先の金塊に目がくらんで承諾した。界人が近づき、そのポケットに金塊をねじ込んだ。

「これも一緒に」

封筒に入った何か。きっと謝礼金だろう。

「悪いな、いい暮らしさせてもらって」

「別に」

界人は荒れた海を見下ろした。

黒くうねり、まるで怪物のようだった。

ホームレスが背を向けて去ろうとする。その腕を強く引っ張って、そのまま海の方へ押しやる。

咄嗟のことに、僅かな抵抗をするがそれもむなしく、ホームレスは崖の下へ落ちていった。

驚きと、恐怖の入り混じった表情のまま、スローモーションのように落ちていく。

これで、灰賀界人は死んだ。

手にはめたゴム手袋を外し、ポケットにねじ込む。

そのままの足で、神谷組に向かった。


「時任さんに会わせて下さい」

玄関のチャイムを鳴らすや否や、出てきた坊主頭のチンピラにそう言った。

あぁん!?と凄んでいたチンピラだったが、後ろから来た別の男に諫められ、界人は門の中へ通された。

「てんめぇクソガキ、びしょびしょじゃねえか、中入れねえぞ」

そう言われて、玄関前に立たされた。雫が落ちて、どんどん水たまりが広がっていく。

ヤスが時任を呼びに行った。純和風の、昔ながらの日本家屋という雰囲気だ。

ぼんやりとその場に立っていると、誰かがこちらに歩いて来る音がした。

「あれ、お客さん?びしょ濡れじゃん」

あ、神谷巽。

界人は、無言で巽の顔を見た。

「君、いい目してるね~」

巽が人懐っこい笑みを浮かべた。界人は少しだけ視界が明るくなったような気がした。

「初めていわれました」

「そうなの?」

「人には気持ち悪いと言われます」

「え~酷い人がいるもんだね~」

困ったように微笑みながら、巽は界人の横で靴に足を入れた。

「雨、やばいですよ」

「まじか~、やだな~」

そう言いながら灰色の景色の中に消えていく巽の背中を見送った。

すぐに時任がきて、界人はシャワールームに案内された。


「稲森海岸で、遺体が発見されました。遺体のポケットには遺書が入っており、灰賀界人さん19歳だと見られます…」

界人が神谷組に来てから3日ほど経った朝、食堂に設置されているテレビからそんなニュースが流れた。

「これ、お前がやったの?」

コーヒーを飲んでいた時任が界人に尋ねる。界人は、頷いた。

この3日間は、神谷組の寮に泊まっていた。入りたいと言ったはいいものの、時任が渋ったせいもあり、宙ぶらりんの状態で過ごした。

「世間的には、俺はもう死んだんで。組に入れて下さい」

界人は湯呑に手を伸ばし、熱い茶を啜った。

時任は内心迷っていた。界人がいずれとんでもないものになってしまう予感がしたからだ。

しかし、野放しにする方が余程危険だ。なにをしでかすかわからない。

「お前の熱意はわかったよ。そこまでお前は何に執着してんの」

そう言われて、界人はよくわからなかった。執着なんて、していない。

「執着してないす」

「じゃあなんでこんなにウチに入りたがってるの」

そういわれて頭によぎったのは、神谷巽だった。

「…興味があったから」

「なんだそら」

時任は肩をすくめた。


それからなんやかんやあって、入門が認められた。

兄貴分は、神谷巽だった。時任が界人の思惑に気づいていたのかどうかは定かではない。

「なあ灰賀、お前、巽が殺されそうになったらどうする?」

事務所でふと2人きりになる時間があった。時任はそう尋ねた。

「俺が代わりになります。もし駄目だったら、報復します。どんな手を使ってでも」

界人はお茶を淹れ、湯呑を時任の前に差し出した。そして、脇に控えた。

「座れよ」

そう言う時任の勧めを断る。

「じゃあ、巽が死ねって言ったら?」

「死にます」

時任は肩をすくめた。

「巽さんが…巽さんが要らないというなら、俺の価値はないので」

「お前も大概だよな」

やれやれ、と頭を振りながら時任は煙草に火をつけた。

界人は、その動作を見守る。

「じゃあ、俺が死ねって言ったらどうする」

「死にません。時任さんは、巽さんじゃないので」

その言葉を聞いて、時任は爆笑した。

「やっぱお前、面白れぇなぁ。ほんと、巽の事大好きだな」

大好き、と言われて違和感を覚えた。そういうつもりではない。

「大好きとは違います。興味があるだけです」

そう、興味があるのだ。あの綺麗な顔の下の感情とか、艶やかな髪の下の脳みそとか、洋服の下の身体とか、背中に彫られた刺青が何なのかとか。どこ出身で、どこに住んでいて、何が好きで、何を見て、何を食べて、何を思って、何を聞いて、何が嫌いで、どんな言葉を言われたら嬉しくて、どんな欲求があって、どんなものが欲しいのか。家の中には何を置いていて、休日は何をしていて、独りの時間はどう過ごしていているのか。自分といない時間のことを、知りたい。

そう、ただ知りたいだけなのだ。

「馬鹿だな、それを大好きっていうんだよ」

時任の言葉に、界人は首を傾げた。

新緑の頃だったと、思う。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。