夜叉丸の恋7
ぱしゃり、ぱしゃり…
縁側の方で、鯉の跳ねる音がする。香を焚きしめて書を読んでいたが顔を上げた。
珍しい。
いつもは静かな池なのに、今日は鯉が跳ねる。
其方が気になるとゆっくりと立ち上がり障子越しに音の聞こえる方向へ歩みを進める。
一度膝をついて座り直し、そこから風情を感じて、透かしの入った障子を優雅な手つきで開ける。白く長い尾を揺らし、外を覗き込むようにする。
甘く一度嗅いだら忘れられないような上品な香りが部屋の中から流れ出した。
庭の花々も見惚れるほどの美女が憂いの含まれた瞳で音の方を見る。
玉藻御前、と呼ばれるその妖怪は、月までも息を呑むほどの絶世の美女だった。
控えめだが可憐さと目を引くたまご色の打掛に花の模様が入った半襟から伸びる首は白く、見るものを狂わせる。
彼女が長いまつ毛に囲まれた瞳を揺らして上げると、山の主が欄干にもたれかかっていた。
玉藻の部屋の縁側と酒呑童子の庵の端は面している。酒呑童子の庵が池に浮いているので直接訪れることはできないが、時々こうして姿を見ることがある。
気まぐれで不愛想な鬼の頭領は、乾いた小麦を手すりから撒いて鯉に餌をやっていたのだ。いつもとは少し違う姿に思わず小さな笑い声を漏らすこと鬼も気づいて此方を向いた。
玉藻は袖で軽く口元を抑えて首を傾げる。一つ一つの所作ですら美しく画になる。
酒呑童子の金色の瞳と目が合い、鋭い瞳が心なしか柔らかくなった。
遠くで虫の声と、屋敷のざわざわした音が聞こえるが、この二匹の刻はまるで止まってしまったかのようだ。
暫く何やら見つめ合っていたような気がするがどちらが声をかけるわけでもなく、ただ時間と風だけが流れた。
鬼の口角がゆっくりと弧を描く。それに釣られて狐も妖艶だが可憐な笑みを浮かべた。
日本三大悪妖怪と揶揄される二匹が対峙し、どちらも衰えぬ妖気を湛えている。
鯉が跳ねた。玉藻が一度そちらに目をやり、すぐに鬼に戻すと、もう既にそこに姿はなかった。煙のように姿を消したのだった。
「玉藻様?」
室内に置かれた管の中で眠っていた管狐が目を覚まし、外を眺めている主人に声をかける。
「我が管狐よ、鯉の音は風情よの。」
池でまだ跳ねている鯉の水音の方を向いたまま玉藻が鈴を転がしたような声で呟いた。
管の中から姿を現した管狐は玉藻の見る先を同じように見やりながら、ぱしゃり、という水の音を聞いて「その通りで御座いますね。」と柔らかく微笑んだ。
「本当に、本当にですかっ」
半分涙目の夜叉丸が熊の半歩後ろでべそをかいた。
熊の手には、夜叉丸が書いた文。これは奪ったわけではなく、夜叉丸が見てほしいと持ってきたものだ。読んでみて悪くないと思ったのだが、何処か業務的すぎる。
しかしその理由が自分にはわからない。困った熊はこの相談に最適な妖怪がいると思いついたのだ。
星熊の進言で、分からないことは他の得意分野の妖怪に聞く、というものがあった。それが一理あると思ったので、他の妖怪にも見てもらえばいいと言ったのだが、夜叉丸の方が躊躇うので、一緒に来てやったという訳だ。
大広間を通り過ぎて突き当りを曲がると廊下になる。その突き当りにある、一つ離れた部屋に、その妖怪は住んでいたのだ。
大広間を過ぎたあたりで夜叉丸も誰のところへ行くのかが分かったらしく、慌てたように引き留めようとするのだが、熊の耳にはあまり入っていなかった。
熊の重い足音と夜叉丸の軽い足音がその部屋の障子の前で止まった。
「熊様ぁ…」
緊張している夜叉丸がうう、と唸った。
「勇気を出せ夜叉丸。」
「でも、でも…」
障子に手を掛けようとしたその時、先に内側から開かれた。
「煩いぞ。玉藻様がお休みになれないだろう。」
首から管をいくつも下げ、ときわ色の羽織を羽織った男が顔を出した。彼の身体の半分ほどだけ開けているので中は見えない。僅かに甘い香の香りが鼻をかすめた。
顔を出した彼が整った眉を潜めて咎めるように言う。
「声が筒抜けだ。」
「す、すみません管狐様…」
夜叉丸が肩をすくめて頭を下げる。熊もすまん、と小さく謝った。
管狐は頭を掻いて腕を組んだ。腕飾りも、管の形をしている。
「玉藻殿は居るか。」
声を低くしながら熊が言った。
「いらっしゃるぞ。用か?」
「夜叉丸の文を読んで、どう改善すべきか進言してほしい。」
熊が手に持った文を軽く振って見せた。管狐は一度目をそちらに向けてから顎に手を置いて考えた。
「しかし、今玉藻様はお目覚めになったばかりで…」
「良いぞ、管よ。通して差し上げたもう。」
躊躇う管狐の言葉を遮るように、姿は見えないが部屋の奥から天上の如き柔らかな声が聞こえた。香の香りに似た、甘い声だと夜叉丸は思った。
「畏まりました。」
主人の許可を得て、管狐の表情が柔らかくなり、障子がきちんと開いた。
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