夜叉丸の恋6

夜叉丸は書物の付喪神なので、水と火に弱い。しかし最近、苦手を克服するべく、風呂掃除に挑戦している。今日は、その風呂掃除当番の日だった。

屋敷の大浴場は女湯男湯が分かれており、露天風呂まである豪華なものだ。一度に10人は同時に利用できる。絵師に描かせた大江山の壁画が美しくゆったりと風呂に浸かって眺めることができるのだ。

「僕一人で大丈夫ですって!」

気合を入れて姐さん被りをし、着物の裾を括ってたわしを持った夜叉丸が眉を下げて叫ぶ。大浴場の中に声変わりもしていないような彼の声がこだました。

「お前ひとりでは心配だろう。」

「そうじゃそうじゃ」

続いて反響するのは、低い声と威勢のいい声。夜叉丸同様、姉さん被りをした熊童子と星熊童子が両手にたわしを持って桶山の方に立った。

夜叉丸は、この幹部二人の行動の訳が分からなく、困ったように口をへの字に曲げた。

「そんな子ども扱いしないで下さい…」

見た目は子供だが一応書物としての年月は長いつもりだ。自分よりも背の高い彼らのことを見上げて頬を膨らませた。

「万が一のことを考えろ、夜叉丸。お前にしかできない仕事もあるのだ。水に落ちて、しばらく動けない方が迷惑になると思わんか。」

表情を一つも変えずに熊が言うと迫力があるが、これが彼なりの優しさなのだと夜叉丸は判っている。だから、無下にもできない。

「そうじゃ、お前の悩みも聞かなくてはいけないしな!」

「おい、星。」

思わず本音…というか今回無理やり風呂掃除を手伝うことにした理由を星熊が言うので熊が小声で牽制した。星熊は肩をすくめておどけた表情で誤魔化す。

「僕の悩み…?」

「まあいい。始めるぞ。」

星熊の言葉に首を傾げた夜叉丸に咳払いをしてから熊が宣言した。




大きな風呂釜から水を抜くと随分景色が違って見えると熊は思った。

手に持ったたわしで洗っていく。

星熊はもうすっかり掃除が楽しくなって、凝り性のせいもあってか隅々まで磨いている。

丁度夜叉丸が、乾いた床を踏みながら近くに来た。

「夜叉丸、最近お前の様子が変だと話題になっているぞ。」

「…僕そんなにわかりやすいですか…」

「ものすごく分かりやすい。」

「左様ですか…」

熊に言われた夜叉丸が肩を落として自分の態度を振り返って困った顔をする。この小姓は良く困っているな、と熊は思った。

「話してみろ。」

強請するつもりではないがこういう口調になってしまう。彼もまた、不器用な男なのだ。

星熊は手先の器用さを生かしてこちらの会話に耳を傾けながら壁画の大江山の色を塗り重ねている。どこから絵の具を持ってきたのだろうか。

夜叉丸が手元の乾いた風呂釜のふちを磨きながらぽつりぽつりと話し始めた。

幼く見える彼の、初々しい恋話に柔らかい気持ちになった。

「それでお前は、どうするんだ?」

先日絡新婦にされた質問を同じように熊にも聞かれた。夜叉丸は再び顔を赤くして恥ずかしそうに言う。

「文通がしたいんです。」

「ぶんつぅ~?」

梯子の上から星熊が振り替える。目が楽しそうに輝いていた。

その声に夜叉丸が何度も頷いた。顔が真っ赤で、まるで酒を飲んだかのようだった。

「良いのう良いのう、夜叉丸はかわいらしいなあ」

うふふ、と目を三日月形にして梯子から降りてくる。

熊もその意見に同意して頷き、なんだか愛おしくなって小さな小姓の頭を撫でた。

「文なら、書けばいい。」

夜叉丸の背中を押すように声音を和らげて言うと、夜叉丸は少し首を振った。

「和歌も全然うまくないですし、女性にお手紙を書くなんて…僕…」

自信がないようで、着物の裾を握って下を向いた。

「何を言う。初めは皆初心者だ。」

熊の優しい言葉に少しだけ夜叉丸が顔を上げた。

「そうじゃそうじゃ、夜叉丸、いいことをこの星熊様が教えてやろう!

この大江山にはな、そういうことに詳しい妖怪がたんと居るのじゃよ。」

それに続いて、星熊が不敵な笑みを浮かべながら言った。

水垢の無くなった大浴場は、心なしか声の反響が綺麗になった気がした。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。