夜叉丸の恋3

「ねえ頭領、最近夜叉丸の様子が可笑しいとは思いませんか?」

酒呑童子が前間の屏風の前でぼうっと空を眺めていると柱に寄りかかるようにして茨木童子が立っていた。白い髪が月の光を浴びてきらきらと光って見えた。体から薄っすら湯気が立ち上っている。風呂上りだろうか。しかし、きっちりと着物を着た状態で居る。そういうところを気にするのを見ると、女子らしいなと微笑ましく思う。

月が綺麗な夜に前間で杯を前にどこか遠くを眺める酒呑童子の姿を見ると、茨木は不安な気持ちになる。どこか遠くへ行ってしまいそうな、そんな不安と怖さを抱くのだった。

だから、時間が止まってしまえばいいのに、と酒呑童子といるときはよく思う。今も、この時が止まっていてほしいと思うのだ。

声をかけるのに少しだけ時間を要した。月を見る酒呑童子の姿が恐ろしいほど美しかったからだった。

「そうか?」

茨木の言葉に酒呑童子は顔をそちらへ向けて片眉を上げた。

茨木は毎晩、その日あったことを話しに来る。初めは業務連絡的なものだったが最近では茨木の話したいことを聞くことが多い。

部屋に籠もりがちな酒呑は、その話を聞くのが一日の少しばかりの楽しみでもあった。

それもあり、茨木が部屋を訪れることには慣れていた。

茨木の問いかけに対し、夜叉丸の様子が可笑しいとは思うし、そしたらの理由も知っているのだが、あえてぼやけた返事をした。その返事が気に食わなかったのか、頬を膨らませて茨木が部屋に入ってくる。膝の前を払ってから隣に正座した。几帳面だな、と思った。

前に置いてあった膳に乗った盃を酒呑童子が手に取ると、はっとした顔をした後にその横にある酒瓶を素早く取って盃に注いだ。

…気が利くようになったな。昔は酌などしないと言っていたのにな。

自分に反発していた時からは考えられないほど今は懐いている。昔のことをふと思い出して目を細めた。

注がれた盃を一気に飲み干す。その動作を目で追いかけて、急ぐ気持ちを抑え付けて、酒呑が一息つくのを待ってから茨木は口を開いた。

「そうですのよ。だって先ほどもなんだかぼうっとしていて、渡り廊下から落ちていましたの。そんなこと今までだったらあり得ませんわ。」

唇を尖らせながら曖昧な返事をした主に、小姓のおかしな様子を伝える。

酒呑童子は、その絵を想像して、思わず笑った。

真面目でいつもちゃきちゃきしている夜叉丸が廊下から落ちるのは、なかなか見られない。想像しただけで面白くて仕方がない。

何が何だかわからない茨木は、珍しく楽しそうな顔をしている酒呑童子を黙って見つめた。なんだかおいて行かれているような気がして僅かに寂しさがにじんだ。

一人でひとしきり笑った後、酒呑童子は盃を膳に戻した。

「頭領、何か知っておられますの?」

「まあ知らんことではない。」

「では、教えてくださいませ。」

「それはならんなあ。これを言ってしまうと夜叉丸がちょっと不憫よ。」

「う~。」

不満げに眉を寄せて口を尖らせる。この美しい女鬼は童の様な表情を主の前でだけする。

「自分で聞いてみよ。おれの口からは言えぬからのう。」

自分の顎を、洗っても落ちぬほど黒く血の滲んだ指先で撫でながら答える。顎を抑えた左手には、流れるような形の恋文が呪いとなって焼き付いている。

茨木はふと少し開いた酒呑の胸元を見た。丁度心の臓から分けて左側、整った顔から続けて頸、薄く浮いた鎖骨、厚すぎない胸元にかけても恋文が黒々と浮いて見える。逃れられない呪縛が痛々しく酒呑の身体を蝕んでいるのを改めてみると、心が僅かに沈む。

以前、気分が上がると枷のようにその恋文が痛んで燃えるような苦しみが襲ってくると小さな声で呟いていたことを思い出した。今も、痛んでいるのだろうか。

視線を金色の瞳に戻すと、主は片眉を上げて、何を見ている、と言うように頸を傾げた。


「わかりましたわ…明日にでも聞きます。」

「聞き分けが良いのう。良い子だ。」

頭領は、いつだって狡い。しかし、まるでそれが童にするような言い方だったので軽く睨む。

「子ども扱いして!」

また茨木が頬を膨らませた。酒呑は表情が良く変わり見ていて飽きぬ、と思った。

茨木は、夜叉丸のことで尋ねたはずだったのだが、酒呑とじゃれているようなこの言い合いでなんだか嬉しくなって、やはり頭領のことしか考えられないと思った。

楽しそうな頭領が見られてよかった。

なかなか見ることのできない男の笑う横顔を見て茨木はやはり時が止まってしまえばいいのに、と思った。

池の鯉がぱしゃりと跳ねる音がした。

鈴虫の声が、酒呑童子の部屋からは遠く聞こえるのだった。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。