弥勒忌憚4
部屋に置いてある鉄製の錆びたベッドは、重い。おまけに、布団も重たい。上に乗ると、床が軋むほどだ。床板が悲鳴をあげる。そんなベッドが、部屋には備え付けられていた。
一人じゃ流石に動かしたり出来ないよなぁ。
頭の奥でぼんやり違うことを考えていたせいか、同僚が別れの言葉を述べるまでの会話は一切覚えていない。
「また明日な、惣次郎。」
お疲れ様です、と返すとその背中が歩き出すと思った。しかし、惣次郎の予想に反して同僚は、くるりと振り返った。まだ何か用があるのか、と眉を顰めそうになったが、こらえた。
「なあそういえば弥勒の体調は大丈夫かよ。」
「風邪がひどいみたいで、部屋で休んでます。御心配には及びませんよ。」
同僚、と言っても惣次郎は心を開いていない。敬語のままだ。
「そうか?惣次郎が看病に参ったら俺が代わるからな~弱った弥勒見てみたいし。」
「はぁ」
喉まで出かかった言葉を咄嗟に押さえつけた代わりに出たのはおかしなため息のような返答だった。
「それじゃあ、また」
屈託のない笑顔を無愛想な惣次郎にぶつけると同僚は背を向けた。
俺が出している微々たる嫌悪に気づいていないのか。
能天気で、空気の読めない同僚に少しの苛立ちを覚えると同時に、羨ましくもなった。
今度こそ、同僚の背中は廊下の奥へ向かって動き出す。
彼の背中を無表情で見送り、完全に見えなくなってから自室のドアノブに手をかけた。
あの同僚は、軽口を良く叩く。口数が多い。弥勒の事を気にしていると言う事は、彼は弥勒に多少なりとも気があるということだ。というのも、彼は弥勒を高く買っている。飲みの席で、弥勒にべったりだったのも覚えている。
へらへらと付き合いの良い同僚は、弥勒とも気が合うように見えていた。
気をつけなくてはいけないと心に留めた。
体躯の良い男一人が踏んだだけで廊下の床は軋む。築何十年ということもあってか、もう寮はがたがきていた。隙間風が吹き込む。
弥勒はよく、この糞ぼろをどうにかしろと口にする。
弥勒のよく動く口とか、くるくると変わる表情を思い出すと胸の奥が暖かくなるような気がする。苛立っていたことなんかどうでもよくなった。
重苦しい嫌に響く音で扉を開ける。身を滑らせるようにして入ると、すぐに後ろ手で閉めた。
密閉された部屋の中に入ると、弥勒が部屋に勝手に置いている香の匂いが身体を包んだ。この香りを嗅ぐと、胸が締め付けられる。
部屋の中は薄暗い。冬は日が短い。訓練が終わってから自室に戻ってもこの暗さだ。締め切ったカーテンから薄く射し込んでいる街灯の光が床に陰を落とす。
微かな衣摺れの音がした。
自分のベッドの脇に置いてある洋燈に火を灯すと、暖色の光が灰色の部屋の中を照らした。ゆらりと揺れる炎が艶めかしい。惣次郎の目に生気が戻った。
力を抜いた瞬間、良く通る声が飛んでくる。
「惣次郎てめえ、さっさと外せよ」
「…弥勒、良い子にしてた?」
その言葉に返事はせず、唇に弧を描く。照らされた室内で、弥勒がベッドに繋がれたまま睨みあげた。
絶景だなあ、と心の中で呟く。
先ほど同僚に放っていた冷たい雰囲気とは打って変わり、目尻の力が抜けている。愛おしそうに、弥勒を見つめた。
「良い子にしてた、じゃねえよこの糞野郎!さっさと外せよ!何しやがるんだよ!」
「弥勒、声が大きいよ」
「うるせえ!いくらでもでけー声だしてやるよばーか!」
「…うるさい」
雛のように口を開けるから、塞ぎたくなる。罵倒されても嫌な気はしない。長い間側にいるうちに慣れてしまった。本心から言っている言葉と、弥勒が見栄を張るために言っている言葉の見分けくらいすぐにつく。
両手を上に上げた状態でベッドに固定されていたら、何も出来ず怯えればいいのに。そんな素振りを見せずに噛み付いて来ようとする。白い手首には、縄の跡がきっと残ってしまうだろう。痛々しいけれど、とても興奮する。
弥勒の強がりの半分は見栄を張っている。
弥勒だって、惣次郎が鍛えている事くらい知っている筈だ。体術も、隊の中で群を抜いて強い。それで怯えない筈はないのに、少し見栄を張って威勢良くしている。
頑固な弥勒が可愛くて仕方がない。
弥勒がどんなに喚こうとも、惣次郎の力に勝てるなんて事は無い。惣次郎は、弥勒が抵抗すればするほど愛おしいと思った。
弥勒はベッドが汚れるのが嫌いなので、縛り付けたのは惣次郎のベッドだ。惣次郎は、弥勒に汚されるなら構わない。
唇と唇が触れる。驚いた弥勒が身をよじって避けようとするが、それを許さない。開いた弥勒の唇から舌を割り込ませてかき混ぜる。唾液が、混じった。
弥勒が脚をばたつかせて逃れようともがく。惣次郎もベッドの上に乗ると弥勒の動きを封じるように脚を絡ませた。ベッドは、男二人分の重さで床ごと軋んだ。
食むように、深く求める。弥勒の胸が酸素を求めて上下した。
惣次郎がふと力を抜いた時、下唇に鋭い痛みが走った。
弥勒から体を起こすと、口の中に血の味が広がる。弥勒が眉間に皺を寄せて睨んでいた。弥勒の唇にも少しだけ血が付いている。
弥勒に唇を噛まれたと認識するには少し時間がかかった。
傷口を舌を出してちろりと舐める。鉄の味が濃くなった。
どんなに拒んで噛み付こうとしても、惣次郎には愛らしい子猫の戯れくらいにしか思えない。
「弥勒」
名前を呼んだだけでびくりと震える。ここ三日間で、弥勒の中に惣次郎に対して昔とは違う感情が生まれている。惣次郎は自分のものにするまで後もう少しだと確信した。
落ち着いた沈香の匂いと弥勒の甘い香水の匂いが混じって脳を麻痺させる。
月明かりより白い弥勒の肌が眩しい。このままめちゃくちゃにしてしまおうか。仕置でもしてしまおうか。
少し残酷なことを考えたが、やめた。弥勒が泣くのは、十分堪能したからだ。
代わりに、恐ろしくてなかなか聞けなかったことを聞いてみることにした。
「弥勒は俺のこと好き?」
「は?こんな事されて好きなわけないだろ!…き、きらいだ。」
唐突な質問に目を瞬かせ、すぐに目を伏せて言葉を紡ぐが、続かない。
目を見ないで弥勒が喋るときは嘘をついている時だ。弥勒の顎を持ち上げて目を合わせる。
「目を見て言って」
「…おまえ、お前なんか……」
「ほら言えない。弥勒はすぐ嘘ついちゃうから、悪い子だよね。」
「うるせえ!何なんだよ惣次郎!俺をどうしてえんだよ!」
「俺のものにする。俺がいないと弥勒は生きていけない様にしたい。」
いつからだろう。幸せでいてくれれば良いと思っていたのに、自分が幸せにしたいと思う様になったのは。それだけじゃなくて自分も側で笑っていたい、自分のものにしたいと思う様になったのは。
「……お前だけは味方だと思ってたのに」
「味方だよ、この世で一番の。今までも、これからも」
「それじゃあこんなのおかしいだろ!」
「なんで?こうでもしないと弥勒は俺の気持ち受け止めてくれないでしょ?すぐ逃げようとするし。俺は弥勒がいないと生きていけないのに、きっと弥勒は俺の前から逃げちゃうでしょ、この前みたいに」
「それは…」
「逃げても追いかけるよ。何処に居たって俺は弥勒を見つけるから。」
「なんなんだよ!」
「俺は好きだよ、弥勒。愛してる。」
「俺たち、幼馴染だろ、こんなのおかしい!」
惣次郎の言葉に嫌悪以外の感情を抱いている自分がいる。半分はそんな自分に向けて放った言葉だったが、ダメージを受けたのは自分だけだった様だ。
そう、おかしい。
幼馴染で、ちょっと弱虫で、子分で、最近ちょっと背が伸びてかっこよくなったけど。惣次郎とはいい友達だと思っていた。
それなのに、おかしい。
厭だ、嫌いだって、ちゃんと言えない自分が、おかしい。
こうしてベッドに縛り付けられているけれど、身動き取れない日中何を考えていた?
惣次郎が早く帰ってきてほしい。惣次郎が自分に吐いた愛の言葉ばかり反芻していた。
いや、それは、早く開放してほしかったから待ち遠しかっただけだ。
惣次郎自体を待ってたわけじゃない。
弥勒は自分に言い聞かせた。
「おかしくないよ。俺は、弥勒に会ってから十五年間ずっとずっと想ってたから。俺には、弥勒が必要なんだよ。だから、弥勒にも俺を必要としてほしい。」
誰かにちゃんと必要にされたかった。
惣次郎は、ずっと隣にいた。弥勒も、惣次郎が隣にいることが当たり前だと思っていた。弥勒は性格のせいもあってか、敵を作りやすかった。仲間だと思っても、向こうがそうじゃないと思っている時もあった。
弥勒自身を必要としてくれる人を求めて居た。惣次郎が嘘を言ってないことは容易に見抜ける。何年の付き合いだと思っているんだ。
本気だから、余計厄介なのだ。そしてそれを受け入れつつある自分がいるから困る。
プライドの高い弥勒が、この状況を認められるわけがなかった。
昔のことが頭をよぎった。一番辛い時も、傍にいて味方をしてくれていたのは、惣次郎だったと思い出した。一人で強く生きてきているつもりだったけれど、惣次郎に支えられていたのかもしれない、と思った。
まっすく見つめる惣次郎の青い目が、昔のまま変わってないことに少しだけ安心した。
反発する気も萎んで、何も言わない。
隙間風に揺れる灯りで、陰影が濃くなる。
弥勒の頬にまつ毛の影が落ちた。
「……なあ、とりあえず、外せよ。腕、痛いから。」
静かに言った。
外されても、逃げようとかは思わなかった。なんだか、怒気を削がれたような感じだ。
「わかった。」
惣次郎が弥勒の上から退くと、それに合わせてベッドが軋んだ。沈んでいたスポンジ部分がゆっくり元の形に戻っていく。
惣次郎はポケットからナイフを取り出すと縛り付けた縄を切った。
窮屈なところから解放された弥勒は息を吐き出した。ポケットにナイフをしまうと、惣次郎は弥勒の手をそのままとった。
やっぱり、手首に赤く跡が残っている。
白くて細い手首が痛々しい。なんだか急に悲しくなってしまって、その手首に口づけを落とした。
弥勒は、されるがままに惣次郎のふわふわとした猫っ毛を見つめた。
髪質も、変わらないんだな。
昔雨の日に惣次郎の髪が湿気であちこち跳ねていて面白かったな。
そんなことを思って、思わず口元が緩んだ。
口づけを落とされているのとは別の手でその髪を撫でてみた。柔らかい。本当に、猫みたいだと思った。
弥勒に撫でられて惣次郎は驚いた。
顔をあげる。
弥勒と目が合った。
自分が今何をしたかを思い返して弥勒の顔が赤くなっていく。
撫でるようなタイプではないし、惣次郎を撫でたことなんかなかった。
恥ずかしくなって目を逸らした。
そんな弥勒が愛おしくて仕方なくなった。
「弥勒、抱きしめていい。」
「接吻は無理やりしたくせにそれは聞くのかよ。」
「うん。一応。だめ?」
「……寒いから、いいよ。」
理由なく抱きしめられるのは癪だったから、無理に理由を見つけた。
惣次郎の肌が弥勒に触れた。
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