乙女の随筆


私、京極先生のご本はよく読むのだけれど、一等好きなのは、魍魎の匣なのです。

訳は、点から線が出て、その線が複雑に入り混じっていびつだけれど何処か整頓された、美しい絵を描くから。

私の本命は、榎木津礼二郎様なのだけれど、ほら、榎木津様っていつも本書にお出になるし、すごく自立されているでしょう?一人でも生きていける、お強いお方でしょう?

でも、魍魎の匣には、久保先生がいるの。

私、久保先生のことが忘れられないのよ。あのひと、すごく病的でしょう?

心になんだか傷があって、それがぐじゅぐじゅ膿んで、歪で、なんだかよくわからない、路地裏みたいな人でしょう。

そんな久保先生に、私も心に傷を負わされて、それで彼のことが忘れられなくなるの。

何処か儚くて、私にとっては、なんだか美学があって、完全なる悪ではない、そんな久保先生のことが忘れられなくて、お慕いしているの。

でもこれは、礼二郎様に抱くような、甘い気持ちとは少し違うの。礼二郎様に対する私の気持ちっていうのは、例えば、薔薇園へ行くでしょう。その中で一番美しい大きな薔薇を見るの。そうすると、その薔薇のことをずっと思い浮かべて、おうちに帰っても幸せな気分になって、眠るときすらもなんだか幸せでどきどきして、またあの薔薇を見たい、薔薇の残像が焼き付いて離れなくなる。薔薇の花だけが時間を先へ先へ進めてしまうの。私は、それを見ることしかできなくて。でもそれでもいいと思えるし、時々こちらを見てくれているような気がして、それだけで幸せになれるの。

あの人は、そういうひと。

私のことなんか好きにはならないし、振り向きもしない人。

だから、そんな私を相手にしない彼が好きなの。

初恋みたいな、そんな淡い恋心を、彼には抱いているの。実在しないからこそ、私の気持ちは報われるのかもしれないわね。


でも久保先生って、潔癖で、少し神経質で・・・というか、心に何か重いものを持っていて、それをどうしたらいいかわからない人なのよ。

それが私にも似たところがあるし、理解できるの。

判りやすく言うなら、久保先生には、親近感の様なものを抱いているわ。

礼二郎様には、救いを求めているの。

好きっていう感情は、色々あると私は思うのよ。それは、好きの数だけあっていいと思うし、好きを増やすのは良いことよ。

でも、それを愛だ恋だとかいう、簡単な言葉でひとくくりにするのは少し違うんじゃないかと思うの。私だって、一概に「好き」といっても、礼二郎様には恋をしているけれど、久保先生には恋しているわけではないもの。

日本語は綺麗だと思うわ。でも、どうしてこんなに「好き」の種類は少ないのかしら。もっと美しい言葉で、「好き」を彩ったら、もっともっと生活が素敵になるんじゃないかしら。

好きと言いやすい環境が在るべきなのよ。

私は、もっと気兼ねなく「好き」と言えるようになりたいわ。その時に同時に襲ってくるような、照れとか、恥じらいとか一切打ち崩して好きと言えるようになりたいのよ。

他人がどう思ったって、私は好きなのだから、どうってことは無いのよね。

一番やっちゃいけないと思っているのは、「好き」を「嫌い」っていうこと。

囃し立てられないように、否定して自分も周りに溶け込もうとしてしまうでしょう?それは一番やってはいけないのよね。ちゃんと自分の心にも好きって言えることが大切だと思うの。


私は、ちゃんと胸を張って好きなものを好きだというわ。

だから、貴方もそうしましょう?

そうすれば私たち、もっと分かり合えると思うのよ。


愛をこめて。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。