「ベニスに死す」
「ベニスに死す」という作品はルキノ・ヴィスコンティが晩年に制作した一本である。
この作品は、主人公・アッシェンバッハが美少年・タッジオに心惹かれていく様子を描いた作品だと簡潔にここでは説明しておこう。
ダーク・ボガード演じるアッシェンバッハはミュンヘンを拠点に活動する作曲家であり、指揮者である。夏の休暇と持病の療養かでベニスへやってくる。水の都を舞台にしているからか、場面はじめから水が多く見受けられる。
まず初めにアッシェンバッハは船で登場する。その後浅瀬には来られない船からゴンドラへと乗り換え、運ばれる。冒頭から流れる音楽は、グスタフ・マーラーの交響曲第5番第4楽章である。ここで一気に映画の世界へ引き込まれていくようだ。原作ではアッシェンバッハは小説家として描かれているが映画では音楽家になっているのでこのマーラーを何か暗示しているように思える。
ここはアッシェンバッハが船の上で異常に若作りをし、派手な格好をした老人に出会う伏線が敷かれている場面でもある。髪を染めて顔に化粧を施している老人をアッシェンバッハは少し軽蔑したような目で見つめているのがわかる。この後、アッシェンバッハも彼のようになるとは思わないだろう。
ホテルにつくとフラッシュバックで回想が流れる。ミュンヘンの演奏中で倒れた時に友人である音楽家に慰められている。また、この友人と度々美についての論議を交わす場面が出てくる。アッシェンバッハは美とは人間の精神の作り上げるものだと主張するが、友人は感性のたまものであると主張する。アッシェンバッハの美に対する考えを示している。
ホテルの夕食が整うまでは客たちはロビーで待っている。ゆっくりとしたカメラワークでロビー内を映し出し、アッシェンバッハが席を見つけるまではロビーが画面には映っている。その後アッシェンバッハの視線に切り替わり、その目が一組の家族をとらえたことを伝える。家族に切り替わり、ビョルン・アンドレセン演じるタッジオが映し出される。
この作品を通して感じることはカメラがアッシェンバッハの目線と同じだということだ。アッシェンバッハを見ている風景、視線をそのまま画面に映し出しているということがわかる。彼の意識がタッジオに向いたと思えば画面にはタッジオが映し出され、タッジオの母親に目が向けられたかと思えばそちらが映し出される。それを見ているこちら側に初めて伝えてくるシーンがここである。
ホテルの支配人が食事の準備をできたということを伝えるとグループの大部分は食堂へと流れていく。ロビーの中に残っているのは家族とアッシェンバッハだけである。その家族もやがて立ち上がり、そのまま出て行ってしまう。母親、家庭教師、三人の少女、タッジオという順番でいつもこの家族は行動する。タッジオは後ろで手を組む癖があるようだ。これもまた一つの伏線である。家族が食堂へ消えていく中で、タッジオだけが足を止め、アッシェンバッハに視線を投げるのだ。少年ゆえの好奇心で振り返ったのかと解釈したが、また同じことが起こるのだ。
それは、アッシェンバッハが食堂へ入り、席に着いた時だ。あの家族を探し、見つけたと思ったときにタッジオが振り返るのだ。この作品はアッシェンバッハと友人の回想以外、ほとんど会話という会話は登場しない。だから我々は役者の細かい息遣いや視線に注意していかなければならないのだ。
翌日になるとアッシェンバッハは海岸に出て書き物をするがいやになって安楽椅子に座り、ぼんやりと海を眺める。人々が海水浴を楽しんでいる様子の中でアッシェンバッハの視線はタッジオを探している。水着に身を包んだタッジオは手を後ろに組んで友達とともに歩いている。その少し後にアッシェンバッハも波打際に足を運ぶ。この時驚いたことに、アッシェンバッハは手を後ろに組み、タッジオの癖を反復しているのである。無意識のうちにタッジオを意識し、心がそちらへ向いていることがわかる。
ホテルに帰ってエレベーターに乗り込むとタッジオを含む少年少女に囲まれ、アッシェンバッハは居心地の悪そうな表情をする。最初にとまった階でタッジオが降り、そこからアッシェンバッハのほうをじっと見つめ、エレベーターのドアが閉まるのである。まるで自分の心情を見透かすかのようなまなざしにアッシェンバッハは息をのむような表情をしている。
部屋へと戻るとアッシェンバッハは美とは何かということに縛られ、頭を悩ませる。アッシェンバッハの考える美というのは人間の精神が作り上げ、悪を含まないものだ。時代的に同性に魅かれるなど悪であり、刑事罰の対象であった。彼の妻は階層で何度か出てきているし、その写真へ口づける場面もある。アッシェンバッハは引き返せるうちに、とベニスを後にしようと決める。ホテルを出ようとする彼はタッジオとすれ違う。するとタッジオは笑みを浮かべて彼を射るように見つめるのだった。タッジオはいったいアッシェンバッハの目線に気づき、何を思って彼を見つめるのか。私は、そこまでタッジオは深い意味を持って彼を見つめていたのではないと考える。自分をよく見ているおじさん、くらいの感覚だったのではないか。
ベニスを発つ、というときになって荷物の手違いがあったという知らせを受け、激怒した彼は荷物が戻るまではベニスをうごかないと息を巻く。しかしその眼は喜びに満ち溢れていたのだ。船の上で水面を背景にアッシェンバッハのアップが映った時にそれがよくわかる。水とアッシェンバッハしか見えない画面の中でその眼は大きな印象を与える。
ホテルのバルコニーに戻り、海岸にいるタッジオを見て小さく「タッジオ、戻ったよ」と独り言をつぶやきそのまま手を振る。そして、タッジオと同じように後ろで手を組んで歩くようになっているのだった。その彼の前にタッジオが現れ、柱の周りを回転しながら満足そうな妖艶な笑みを浮かべるのだ。一度惹かれた気持ちを押し殺すように無理にベニスを離れようとし、しかしそれが事故とはいえ偶然によって妨げられたアッシェンバッハはタッジオに運命的なものを感じて、無意識のうちに虜になっていたのではないかと考える。
その夜に後ろで手を組んで歩いているとタッジオの家族とすれ違う。その時またタッジオはアッシェンバッハに微笑みかけ、アッシェンバッハは少し離れたベンチに座り、「誰にでもそうやって笑いかけてはいけないよ。愛している」とつぶやく。
これまでは偶然出会ってきたのだが「愛している」と声に出した瞬間から完全にタッジオに惹かれていると自覚し、故意にその姿を追うようになるのだった。
そして物語は終焉へと向かう。ベニスの町にコレラが流行し、即刻出ていかなくてはならなくなる。町中消毒され、人々は町に出ていない。タッジオの母にそれを伝え、早く避難させようと町の中を歩き回る。
そのあと彼は理髪店へ行く。アッシェンバッハはもうタッジオには会うことはないとわかっていると思うので最後の最後は自分の身なりを整えた状態で会いたいと考えたのではないか。理髪店で彼は黒く髪を染められ、顔にはおしろい、唇には紅をさし、まるで死に化粧のような施しをされるが彼は満足そうであった。冒頭でみた面妖な老人とほとんど同じいでたちであるということに彼は気づいていないだろう。
町の中をタッジオの姿を追って歩き回るアッシェンバッハ。そんな彼を導くかのようにタッジオは振り返ってこちらを見つめているのだった。人気のなくなった海岸に向かってタッジオが歩きだし、ひざあたりまで水につかり、遠くの水平線を指さす。夕焼けに影になるそのシルエットを見つめ、喜びで顔をいっぱいにした後にアッシェンバッハは椅子の上で横たえるのであった。
この作品は全体を通してセリフが少ないように感じる。しかし主人公とタッジオの視線の交錯から心情を見出し、細部まで汲み取ることができる。「美」というテーマに囚われ、美とは何かを錯誤していたアッシェンバッハは美を体現したかのような少年に出会い、言葉を直接かわすことはなく視線のみで対話をしていく。ゆったりとした音楽を背景に、丁寧に表情を拾い、視聴者に対して疑問も投げかける、耽美な作品である。視線と美と水がこの作品の魅力なのではないだろうか。
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