水槽の中の私の噺


ばらばらと散らばった欠片を手の取ると、私の手の中でずっしりと一つの大きな本になったかのような錯覚を覚えた。この重みは文字の重みなのだ。嗚呼、文字が躍っている。

するすると紙から抜け出した文字は気が済むまで白檀の香りの中を漂ってぽとりと畳の上へ落ちた。

私が拾い集めようとすると、まるで、私の手など借りたくないかのようにひとりでに紙の中へ鎮座した。文字の戻った本は、また一つ、重くなった。彼らをもとの本棚へ眠らせると、部屋の中は閑散とした。

嗚呼、これが寂しいということなのか。永らく忘れていた感覚が、水が溢れるかのように流れて部屋の中を満たしていった。寂しさに溺れている。

この六畳の部屋は今、水槽なのだ。私は、囚われた、哀れな魚に過ぎない。何も思わず、ただ漂うことしかできないのだ。

でも、寂しさの中は不思議と心地よかった。

「すきま」があると、そこから嫌なものに入り込まれて、蝕まれてしまう。しかし、寂しさといえど何かに満たされているということは「すきま」がないということだ。「すきま」がなければ何にも侵されることは無い。私には、私という敵がいるけれど。

もしかしたら、久々の普通の感覚が戻ったことが嬉しいのかもしれない。寂しいと思うのは人間の健全な感覚なのだから。

私には、離人症の気がある。自分が、自分のものではないような気がするのだ。感情がほとんど他者のものであるような気がする。恐ろしいのは、これが「普通」のことだと思っていたことである。

むしろ、他人の感情の方に敏感かもしれない。人がどう考え、どう思っているのかは手に取るように分かる。…といっても、物語の中の様な、小説を読んでいるかのような感覚に過ぎない。その感情が私に対して向かっていたとしても、私自身とその人の間には見えない厚い硝子があるように思えてならなかった。

だから、本が安らぎなのかもしれない。本の中では私は傍観者でしかない。介入しすぎる必要もない。それ以上の役割を求められないのだ。感情も、一方的でいい。だから私は本の中での出来事が生々しく感じられるのかもしれない。

本の中では、私は私を感じることができた。登場人物に己を重ねているのかもしれない。他者に自己を投影することで認識しているのかもしれない。

理由はよくわからなかったけれど、判らなくてもいいと思っている。鮮明に見えるのだ。非現実的なほうがよっぽど私にとっては現実的で、鮮明に浮かび上がってくるのだった。

私は無生物との相性のほうがいいのかもしれない。表現しなくても私の感覚を理解し、侵害しない無生体のほうが、分かり合えるのかもしれない。その証拠に、一人で部屋にいるときのほうがよっぽど私は離人しなくて済んだ。

私の離人は、自分の感情が大きく振れた時に発生することが多い。最近あったのは、友人と呼べるくらいには仲の良い人物と話をしていて、ふと、楽しい、と思った時、ふっと離れて、突然「本当に楽しいのか」と第三者から見た自分が見えた。伝わりにくいと思うが、自分が二人いる感覚になるのだ。時々どうでもいい時にもなる。空が青くてすがすがしいはずなのに、物悲しさが襲ってきたり、花が散って寂しいはずなのに喜ばしかったと心と心がすれ違うことが多いのだ。だから、先ほど、どちらの心も一致して、寂しさに満たされたことが、それはごく自然であるべきことなのに、なつかしいような、嬉しいような、安心感を私に与えたのだった。

しかし今はすっかりその良い寂しさは、栓を抜いたように流れ落ち、元の空間に戻っている。また、分離した。寂しさが消えたことに、寂しいと思う私と、嬉しいと思う私に別れた。そしてそれを虚構とする私もいた。

こんな風に私はくついたり、離れたりを繰り返している。しかし、これを悲しみとも苦しみとも思わない。嬉しいとも思ってはいない。これが私にとってあるべきことであるならば、これを享受していく。たとえ、今苦しくなくて、のちに苦しむことであったとしても、私は離人のままで良いと考えている。

再び、本を開く。わくわく、といったら良いのか、焦り、といったら良いのか。うまい言葉が見つからないが、兎に角、先へと私は項を急いだ。これも離人の性質かもしれない感情が現実味を帯びないから、早く早くと感情の起伏を意図的に生み出そうとしてしまう。これがまた余計に離人を促進しているのかもしれない。しかしもうこれは癖のようになってしまっている。こればかりは、治したいと思っていた。味わうことをおろそかにしているような気がするからである。

めくる紙は軽いけれど、その文字は重い。悪い意味ではなく、良い重さ。紙をめくる音というものは、恐ろしく心地い音を奏でた。文字の足音のようにも感じる。本を読むとき、また離人が役立つ。一方では、文字を映像としてとらえ、もう一方では文字として捉える。

同時に理解していけるのだ。想像力と知識を同時に別の場所で使う感覚と言えばわかるだろうか。

つまり、私の中で本を読むという行為は、映画を見ることと、文字を読むこと、二つの側面があるということだ。切り取られた世界を二つの方法で同時に楽しめることは離人の美徳であると思う。

二つの方法で楽しんだ文字は私を通って紙面へ戻る。こんなことがしょっちゅうあった。

戻った文字はまた沈黙する。しかしその沈黙は空っぽな、つまらないものではなく、たっぷりと中身の詰まった、水中のような沈黙であった。

骨董市に行きたい、とふと思ったのは、文字との沈黙が切れた時だった。前述したとおり、私は無生物に対して情を移す傾向がある。物こそ、「生きている」感じがするのかもしれない。もしくは、私のエゴイズムがまかり通るから、なのかもしれない。

そんな私のエゴイズムを受け入れてくれる物たちは、部屋で私をいつも見守ってくれている。もしかしたら、もう少しで付喪神になるのかもしれない。だから、余計に我が家が愛おしいのかもしれない。骨董市に行きたくなったということは、私を求めているお物がいる、ということなのだ。私を必要とし、私の傍にあるべき物が私を呼んでいる。だから、私は骨董市へ行きたいと思ったのである。どんな出会いをするのか、非常に楽しみになる。

そんなことを考えると、また離人した。非現実を否定する私と、愛する私。こうして別れた人格が真っ向から対立することが多すぎるのだった。たいてい離人は放っおけば治るものなのだ。

暫く経つと、分かれていたものは大人しく私の中へ戻った。

開けた窓から、虫の声が聞こえた。

そういえば、昨日ふと思い立って外へ散歩へ出た。その時の夜が異常なまでに優しかったのを覚えている。纏う様な、暖かい夜だと思った。

嗚呼、私は私をたらしめるものが何なのかがわからないのだ。「私」とは一体何なのか。本当に存在しているのか。私は、忘れられることが一番怖い。いつかの夢で、叫んでも誰にも届かないことがあった。あれが恐ろしくてたまらない。私とは一体何なのだろう。ここにいる証拠がほしい。だから、こうして物に安らぎを覚えるのかもしれない。時が移ろうなかで、私は何かが出来るのだろう。こうして、思ったことを文字にして、死んでゆくだけなのだろうか。

きっと誰にも判らないし、判りたくもないのだ。だからこうして、人々はすれ違い、もがいていく。

ずっと変わる事はないのだろう、と思った。

車が通っただけなのに、悲しい。

そしてその悲しさを嘘だという自分もいる。

この人たちと私は一生共に暮らすのか、と思うと、嫌だと思う私と、寂しくないねと嗤う私に別れた。

私は、一人ではないのかもしれない。いや、しかし、それは錯覚なのだ。

こうして一人でこの大きな水槽の中で漂うことが、今の私にとって必要なことなのかもしれない。


薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。