あのひと

幼少の頃から達観している処があった。小学校のころ、担任から「大人っぽいね」と言われたことをよく覚えている。中学の頃になると、「精神年齢が高すぎてクラスで浮く」とさえも言われたことがある。その自覚は、昔はなく、自分ばかりが正しいとさえ思っていたのだ。そういうところは子供だったとこうして経験を一応は重ねた今では思うことができる。20歳を越えて、漸くその理由とか、原因なんかが明らかになったような気がする。


離人症の気がずっとあった。離人症というのは自分が自分でないような、精神乖離する症状だ。こうして文字を書いているときも、時々離れていく。他愛もないことなのに心が二つに分かれるのだ。上手く人に伝えるのは難しい。例えば、誕生日を祝ってもらうとそれに対して嬉しいと思う自分と、そんなことはしなくても良いと卑屈になる自分と、その二つの自分を馬鹿にする自分に分かれる。空が高いことが無性に悲しくなるなんてことはしょっちゅうだ。

物事を多角的にみられるという言い方をしたらよく聞こえるかもしれない。でも、そんなよいものでもない。実際には突然自分が自分でなくなるような気がして恐ろしいのだ。いや、恐ろしいというのは少し違うのかもしれない。哀しい、というほうが強いのかもしれない。

私の欠点は、疑り深く、人の懐へ飛び込む潔さがないところだ。欠点はわかっている、わかっているつもりだ。こちらが何かを他者に働きかけても、他者は迷惑だと思っているのかもしれない、とそんなことばかりが気になる。これがいけない。案外、人というものは自分に興味を持たれたりすると嬉しい。自分がくよくよ考えていないで飛び込んでいくことも大切なのだということは重々に承知している。しかしそれがうまく、心と体と頭で連動しない。自分のものなのに、まるで他人のものであるかのような錯覚を覚える。今でこそ、ガス抜きがうまくできるようになったけれど、昔は溜め込みすぎて爆発してしまうことが多かった。


一年ほど前は怖いくらいの虚無を感じていた。何をやるにもやる気が出ない、一人になると沈む、好きな食べ物も美味しくない、好きなこともやりたくない、というものだった。其れで、一週間くらい引きこもって家から一歩も出ないこともあった。私は今一人暮らしをしている。だから余計に、一人でこのまま死んでもいいなとすら思ったことがあった。そこからどういう風に立ち直った(正確には完全に復活できていないのかもしれないが)のかはよく覚えていない。そんな自分ではいけない、と離人した自分が言ったのかもしれない。

本が好きだ。幼少の頃から、本の虫だった。暇さえあれば図書室にばかり行っていた。年間で400冊は読む子供だった。それが功を奏してか、今でも大量の本に囲まれて生活している。もう15年以上毎日本を読んでいれば、文字との付き合い方もわかってくる。文字は生きていると、私は思う。気分が落ち込んでいるときには、そんな気分で読むなと叱られたりもする。真っすぐに自分の気持ちを鏡にしているといっても過言ではない。そんな、本が、文字が好きだった。

だからこうして今も文字を何か綴るのが一種の生き甲斐のようになっているのかもしれない。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。