オレンジと白い薔薇
着替えもせず街に出たウィリアムを通行人たちは物珍しそうに横目で見ている。
休日に外出する生徒は大抵私服に着替えているからだ。名門校の制服を着ていれば嫌でも目につく。ウィリアムは興味と関心の目を向けられても、そんなの御構いなしに石畳の上を歩いていく。
少しの間だけ住んでいたロンドンの街だが、馴染みの店ばかりだった。
「ウィリアム!」
声をかけられて足を止めると、そこにはエプロンをつけた恰幅の良い男性が、果物を乗せたワゴンの向こう側に立っている。
大きく手を振りながら歯を見せて笑う彼に近づくとウィリアムは「太った?」と問いかけた。
「失礼なやつだな、幸せ太りだよ!」
「太ってるじゃん」
「まあな。ところで、りんごが大量に入ったんだが味見していかないか?」
「悪いね、りんごが苦手なんだ」
「そうか?うまいのになあ...じゃあこっちの、カリフォルニア産のオレンジはどうだ?」
「別に今はいらないんだけどな....と、思ったけど1つ貰ってくよ」
「おっありがてえ〜おまけにもう1つ付けてやろう」
「そんなんで商売になるのかよ」
楽しそうに会話しながら、ウィリアムはポケットの小銭をワゴンの縁に置いた。
差し出された2つのオレンジを受け取ると彼に別れを告げる。
「まいどありー!」
威勢のいい声を背中で受け流し、街を進んでいく。
受け取ったオレンジの1つをおもむろに鼻先へ近づけてみる。
芳醇で爽やかな香りが肺腑に流れ込んでくる。遥か海の向こうのカリフォルニアを思わせる、豊かな香り。なんだか気分が高揚してくる。
大振りのオレンジを片手に2つ持ちつつその鮮やかな色を眺めた。
昔住んでいた頃より、新しい店が増えている。行きつけだった本屋は潰れてジュースショップに変わっていた。妙に感傷的な気持ちになりつつもその前を通り過ぎた。
紅色の看板がすっかり変わって今やフレッシュな水色の看板になってしまっていたのが少し寂しかった。
まるで行くあても無いかのような足取りだが、しっかりとウィリアムは目的地に近づいている。ロンドンの街を足早に突っ切ってしまえば、急に人通りも喧騒も減る。
電気の付いていないガラス張りのショウウィンドウばかりになった景色の中、道端に小さなワゴンが出ていた。
時々ここを通ると店を構えている、出張の花屋だ。
1人で引くことのできそうな車輪付きワゴンの中に、いっぱいの花が詰め込まれている。パステルカラーの車体には「フラワーショップ」の文字。
灰色の寂れた街並みに突然現れる鮮やかな色彩に一瞬脳が可笑しくなりそうだが、ウィリアムはその花屋がここに出ることを知っていた。
毎度、ここではなくもう少し中心へ出せばいいのに、と思うがこのワゴンは中心街の人間に花を買ってもらうために開店しているわけでは無いことを最近になって悟った。
ワゴンに近づくと、いつもは老婆が1人で切り盛りしているのに今日は少女が1人、熱心に本を読んでいる。
「ハロー」
軽く覗き込むような形で低く声をかけると彼女が肩を揺らして、驚いた顔でこちらを見た。
「ねえ、白い薔薇を5本包んでくれない?」
少しだけ目尻を下げて微笑むウィリアムの顔に見惚れたあと、慌てて「わかりました」とワゴンから白い薔薇を選ぶ。
「何読んでいたの?」
ワゴンに軽くもたれかかりながらウィリアムが尋ねる。
「眠れる森の美女です...挿絵が好きで」
少女はちらりとウィリアムを見ると、彼の横顔が挿絵に出てくる王子様にそっくりだと思った。
「へぇ、誰が描いているの?」
「アルバート・ロビンです」
その名前を聞いてからウィリアムは先ほどより柔らかく微笑むと彼女に「俺もその人の絵、好きだよ」と囁く。
少女はその様子に耳まで赤くなれば薔薇を手早く紙に包んでリボンをかけた。
「出来ました」
気恥ずかしさか照れか、ウィリアムの顔を見られないままそっと花束を差し出すと、彼はひょいとそれを持ち上げて代わりに代金より少し多めのコインをその手に乗せた。
「あの、お代金より多いのですが...」
「いいよ。チョコレートでも買いな」
そう言い残すとウィリアムはワゴンの横を通り過ぎて石畳に革靴の音を響かせ始める。
少女はその後ろ姿を見つめながら、眠れる森の美女の本を抱きしめた。
いよいよ人通りが無くなった頃、左手に鉄柵が連なった。
その切れ目に、大きな鉄の門が現れる。門番もいない。こんな立派な門、と思うかもしれないが所々錆びついて年季を感じさせる。
その門を軽く押し、重々し音と共に開かれた先は墓地だった。
削られた墓石が規則正しく並び、その中に十字架の石も混じっている。その中の、1番端にある十字架に名の刻まれた墓にウィリアムは近づいた。
“アルバート・ロビン“
その名を見てウィリアムは墓の前に膝をつく。
「久しぶり。さっき花買ってきたよ。そこの女の子がさ、爺ちゃんの絵が好きだってさ。まだまだ爺ちゃんの絵はロンドンで愛されてるよ。あ、そうだ。オレンジ買ってきたんだ。置いとくよ。それから、爺ちゃんの好きな白い薔薇。結局なんで好きなのか分からずじまいだったけど。これも置いてく」
絞り出すように、小さな声で囁きながらウィリアムはオレンジと白い薔薇を墓石に供える。
綺麗に掃除されている墓にこれ以上何をしてやることも出来なかった。
冷たい風が吹く。
もう春なのにこの墓地には花が咲かない。枯れた木が一本、門のところにあるだけだ。寂しいこの場所に眠る恩師を、ウィリアムは訪ねてきたのだった。
しばらくの間、ウィリアムは墓の前で何かを考えていた。じっと動かずに映えるオレンジの色を見つめていた。
カラスの鳴き声で我に帰ると、わずかに寂しさの滲む顔で「また来るよ」と告げる。
ゆっくりと立ち上がり、来た道を引き返していくのだった。
風に吹かれて、ころり、とオレンジが転がった。
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