ユートピアジャスティス

「琳太郎」

聞きなれているはずなのに、どこか遠くて、懐かしくて、思い出せない声が彼の名前を呼んでいる。覚えていなくてはいけないはずだし、覚えていたいと思ったはずなのに、もう遠い昔のことのように感じてしまう。そこからずっと、立ち止まったまま足を踏み出せないところにいるようだ。

なんで、忘れてしまったんだろう。

いや、忘れてしまったわけじゃないはずなのに、思い出せない。頭の奥に何かが引っ掛かって手が届かない感じだ。

むずむずしてなんだか気持ちが悪い。ああ、思い出せない。忘れたくなかったはずなのになあ。笑いながら誰かが逃げていく。砂時計の砂のようにさらさらと記憶がこぼれるみたいだった。置いて行かれているよう気がして、不安になる。待ってくれ、と声を出しても走り去っていく背中には届かない。

泣きながら、一之瀬琳太郎は目を覚ました。

灰色の天井を見上げて、ようやく不安感の正体が夢だったと気づく。いや、不安感が夢だけではないことはわかっていた。不安にならない日はなかった。ずっと心の奥底に隠して、自分をごまかし続けてきた綻びが夢の中に出てきてしまったのかもしれない。わからないふりをしてきたが、右も左も知らない都会に一人出てて、行き当りばったりでこの期間を過ごしていた不安が、ずっと押し込めていた場所から少しだけ蝕んできているのかもしれない。少し荒い呼吸を整えるように深呼吸すると夢だと安心し、現実ではないと自覚することができた。

半袖のシャツの肩口で涙をぬぐう。どこか安堵している自分と、子供のように泣きながら目を覚ましたことに半分呆れている自分がいる。涙を流したのなんか、いつぶりだろうか。ベッドの上で長く息を吐いた。

上半身を起こすと止まっていた空気も同時に動く。薄っすらと、肌寒い。

体にまとわりつくようにぐしゃぐしゃになった紺色の掛布団を引きはがして畳む。

まだぼやける頭を軽く掻きながら赤いカーテンを開けた。

外はむせかえるような圧迫感のある曇天だった。

昔の友人は、非常に曇りを嫌がっていたなあと、夢のせいもあって思い出した。髪の毛がまとまらないとか、はっきりしない天気は気に入らないとか、そんなことを言っていたっけ。そんな友人と、高校生活はずっと過ごしていたのだった。

しかし、琳太郎のほうは天気によって気分が変わるような性質ではない。曇天だからと言って取り分け落ち込むこともなかった。

後ろ側の跳ねた猫っ毛を掻きながら洗面台へ向かう。

一人暮らしを始めてから、もう一年が経とうとしている。

親の反対を押し切って友人とともに都会へ出てきたけれど、思っていたよりも現実はシビアで、大学入学を目標として入学金を稼ぐべくこの一年は勉強とアルバイトしかしてこなかった。高校卒業と同時に都会の専門学校へ入った友人とも、あまりの忙しさでなかなか会うことはできなかった。携帯での連絡は度々とるが、最近ではずいぶん頻度も減ってしまっていた。彼らもきっと自分の新生活に忙しいのだろう、とわかった顔をして自分を納得させていたが、寂しい気持ちは勿論あった。しかし自分の力でそれをどうにかできるわけではないことを琳太郎は知っているのだった。

琳太郎の実家は、田舎の大地主だ。本当なら家業を継いで安泰だったはずだが、琳太郎にはやりたいことがあったし、親の言いなりになるのがいやだった。それもあって、高校の頃には髪も染めたし、やってはいけない煙草も酒も一通り経験して家へ反発していた。一年前、田舎を飛び出てから一度も家へは連絡をしていない。罪悪感が時々ちくりと傷んだが、それ以上に反抗心のほうが強かった。その反発心の象徴なのか、明るく染めた髪を未だに一度も染め直したことはない。家を出てもなお、家へ縛られているような自分がなんだか情けないと思う。

電気をつけない洗面台は暗い。薄墨を流したような暗さの中、冷えた水で顔を洗い、鏡の中の自分と目が合った。久しぶりにきちんと顔を見たような気がする。きつめの猫目が、寝起きのせいもあってか不機嫌そうだった。この目のせいで絡まれたこともあったが、そんなことはどうでもいい。見た目は高校の時よりも大人っぽくなったはずなのに、中身は変わってないような、成長できてないような気がした。軽くため息をついて、洗面台を離れる。

一年の猛勉強と猛アルバイトのおかげで、見事に大学入試を突破することができて、もうすぐ入学式を控えていた。琳太郎は、都内の国立大学の文学部へ入学する。今までの忙しくて余裕のない日々と違うであろう大学生活を思って、なんだか楽しみになった。

高校のころから金色だった髪を、今日は切りに行くつもりだ。適当にパーカーとジーンズを着て、玄関に出しっぱなしのスニーカーに足を突っ込んだ。

築何十年のぼろアパートの生活は、実家にいるときの息苦しさはなかった。六畳半の決して広くはない一室での生活にいつの間にか慣れてしまった。

はじめは慣れないことばかりで料理も洗濯もできなかったが、アルバイト先の店長や先輩などに様々な生活の知恵を教わり、一年で一通りのことはこなせるようになったと感じている。

この頃は自炊もするようになり、ようやく自立というものに近づいた。

重い音を響かせてドアを開ける。

やわらかい春の光がまぶしい。

入学式に向けて、高校の時からずっと金色の髪を、少し気分を変えてアッシュにしてみようと思っていた。

一年過ごして、もうとっくに見慣れてしまった街並みを歩いた。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。