【シキケン】厭離穢土
兄は寂しい人だったと思う。
神谷巽は、仏壇の前に置かれた、暗い目の遺影を見ながらそんなことを考えた。
兄が死んで、1ヶ月が経った。
身体が強い人ではなかったから、皆それなりに覚悟はしていたはずだ。
冷徹で恐ろしい兄が亡くなって、胸をなでおろしている組の者もいるのではないだろうか。
自殺未遂を起こした妻の文緒も随分落ち着いて、今は出産に向けて入院している。
だから余計、兄の仏壇の前で寂しくなった。
巽は、兄から色々なことを言われた。衝突もあったし、恐ろしいと思うことも多かった。
でも巽は、兄を嫌いになれなかった。
あの人は、自分の感情の名前を知らずに生きていた小さな子供のような人なんだと、思っている。
文緒にも、兄にも口が裂けても言えない。そんな風に思われることすら煩わしいと思うはずだからだ。
「俺は兄さんのこと、慕ってましたよ」
死人に口なしとはよく言ったもので、今ならば言い返されまいと、届かぬ気持ちを吐き出した。
「兄さん、日本に呼んでくれて感謝してます。多分兄さんは不本意だろうし、嫌な顔をすると思いますけど、日本で色々な人に出会えました。俺に居場所を下さってありがとうございました」
こんなのは自己満足だとわかっている。
兄は望んでいないだろうけれど、でも伝えるくらいは許してくれないだろうか。
「兄さんは恨むなら恨め、と言いましたが俺は恨めません。むしろ感謝してます。それなのにできの悪い弟ですみません」
畳に、雫が落ちた。
自分より悲しんでいる人がいる手前、涙など流せなかった。
感情を口に出すと、堰を切ったように溢れてくる。
「兄さん、どうぞ安らかにお眠りください」
薄暗い部屋の中で、ひとり小さく呟いた。
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