夜叉丸の恋
様子がおかしい、と酒呑童子は思った。
いつもなら昼過ぎになったら必ず昼餉を持ってくるのに、今日はそれがない。
朝餉の時は、あまり意識していなかった。
大江山では、朝と夕を皆で食べることになっている。昼は用事があったりするので、個々で食べることが多い。酒呑童子は、外出している時以外、自室で済ませる。
甘えているつもりはないのだが、運んできてくれるのだからそれを拒否する必要もないと思ってそのままにしていた。
膳を持ってきて、食べ終わったら下げる。自分が台所の傍の部屋まで行けば楽なのだろうけれど、部屋から出るのが億劫だった。
とうとう嫌になったか。
自分で取りに来いということだろうか。
腹は減っていた。朝餉から時間が経っているから仕方がないだろう。
目まぐるしく働いて、慣れない体に疲労して倒れているのだろうか。
仏間で胡坐をかきながら思案を巡らせた。
蝋燭の光しかない部屋の中は薄暗い。昼間だというのに部屋の四つ角に向かうにつれて墨を流したような闇が広がっている。
左側には、太陽を濾して柔らかくなった光が障子から差し込んでいる。その光は仏間の中のひんやりとした空気を温めるには弱弱しかった。
白檀の香の薫りが煙と共に酒呑童子の体の周りを廻って消える。屋敷の中で誰かがばたばたと走っている音が遠くから聞こえた。
本殿から離れに位置している酒呑童子の部屋にも聞こえるくらいの大きな足音だ。どうせ、鬼童丸か誰かだろう。夜叉丸は、足音がもう少し軽いはずだ。
細く長く息を吐いた。
鬼の纏う気に、空気が圧倒された。
ゆっくりと立ち上がる。白檀の薫りも同時に動いた。空気が緩く酒呑童子に合わせて流れ始める。
障子を開けた。
太陽の光が濃く酒呑童子を照らす。眉をひそめて日の明るさを少しだけ嫌悪した。秋口というのに空気はもうずっと冷たくなっている。寒さに思わず自分の体を摩ると、その冷たい空気を肺腑いっぱいに吸い込んだ。
「おい、夜叉丸は何処だ。」
この声に走っていた足音が止まった。やはり、酒呑童子が何かを言うと屋敷の空気は張り詰める。屋敷そのものが、酒呑童子に敬意を払うのだ。モノすらも圧倒する気が、この鬼にはあった。
返事がない。
大抵は、夜叉丸の「や」の字を言っただけですっ飛んでくるというのに。
仏間から一歩出た。足の裏に、ひやりと冷たい床の温度が伝わってくる。短い縁側の端には、手すりがついていて、すぐ下の池をのぞき込めるようになっている。手すりのほうへ向かって何歩か歩いた。そこにもたれ掛かるようにして、もう一度空気を流し込む。
「夜叉丸!」
びりびりと空気が振動する。餌がもらえるかと思って寄ってきていた鯉たちがぱしゃりと跳ねて一斉に逃げてしまった。本殿のほうが静まり返っている。皆が怯えているような気がした。
怒気を孕ませたつもりはなかったのだが、どうにも自分の意思はうまく伝わらない。不器用なのだ。日の光に背を向けるようにして手すりにもたれ、角の根本を無意識の中で撫でた。
「…はい!」
だいぶ時間が経ってから、返事が聞こえた。ぱたぱたと走ってくると思ったのに、予想外に近いところから声がしたので少しだけ驚いた。後方で、どたどたと慌てたような物音がした。
姿は見えない。
書斎のほうから声がしたので、そちらへ向かっていく。
仏間を突っ切って、寝室も突っ切って、書斎との間にある障子を開けた。
「うわっ」
丁度出ようとしていた夜叉丸とぶつかった。酒呑童子の胸に飛び込むような形で態勢を崩す。倒れてしまう――と思ったが、酒呑童子が夜叉丸を受け止めた。
ふわりと白檀の匂いが立ち上った。
夜叉丸が慌てて離れる。主人の胸元に飛び込んでその上抱きとめてもらうなど、あってはならないことだ。
「申し訳御座いません、主様!」
「…いや、構わん。それより、もう昼餉だが、どうなっている?」
「えっもうそんな時間で御座いますか!すぐお持ちします!」
大急ぎで頭を下げると、まだなにか言おうとしていた主人に気付かずそのまま走って行ってしまった。まとめあげた髪がしっぽのように揺れてその後姿がふすまの向こうへ消えた。
慌ただしい奴だ。
あいつでも何かに熱中していて時間を忘れるようなことがあるのか。
長い間一緒にいるのに、初めてあんなに慌てている夜叉丸を見た。意外な姿に戸惑いつつも、夜叉丸が先ほどまでいた書斎に入る。
書斎は仏間とはまた違った暗さがある。部屋の半分が本棚になっていて、窓の前にも棚を置いているので殆ど光が入らない。行燈をいくつも置いて光を補っているのだ。それに、古今東西から集めてきた本が何千冊と置いてあるので、ほんのわずかに埃っぽい。どれだけ掃除しても取れない香りが充満していた。
部屋の真ん中に置いてある文机に近づくと、何冊か開いたままになっている本をのぞき込んだ。
「百器徒然袋」「徒然草」「諸国百物語」「古今和歌集」
前三冊はどれも、文車妖妃の項を開いていた。最後の一冊は、五百五十番目あたりが開かれている。
横に置いてある夜叉丸の日記帳らしきものには、事細かにほぼ全部の本の内容が写されている。ご丁寧に鳥山石燕の絵まで真似て描いてある。よくここまでやったものだ、と感心した。学ぶということはよいことだからな、と。
ふと隣を見ると恋の和歌も書かれていた。小野小町をもじって自分で書いたと思われる和歌には大きなばつ印がついていた。気に入らなかったのだろう。
その隣にある紀友則の和歌の枕詞には丸がついていた。和歌の勉強でもしているのかと納得する。
なんだか興味が湧いてきて、酒呑童子はひょいと次の項もめくってみた。
そこには、童のような、肩の少し上あたりで髪が切りそろえられた女子の絵が描いてあった。誰かの似顔絵だろうか。どこか見覚えがある。誰だっただろうか。
手に持っている徒然袋に目をやると、全てが繋がった。
夜叉丸が描いたであろう似顔絵の元の顔を思い出した。
あれは、先日遠野に呼ばれた時のことだ。
古い友だった大狸に招待されて遠野へ赴いたのだ。そのお共に、夜叉丸を連れて行ったのだ。あまり大江山から出たことのない夜叉丸は大喜びでついてきていたのを覚えている。
その遠野の会合の席で、この似顔絵の女童がいた気がする。
その妖怪が文車妖妃、だったはずだ。
なるほど。
お互いに紙の付喪神のようなものだし、何か通じるものがあったのかもしれないな。
ははん、恋煩いか。
勝手に納得していると、ぱたぱたと足音がした。
「酒呑童子様、あの、昼餉の準備ができました。大変申し訳ございません…ああーっ!」
膳を用意してからきっと来たのだろう。入るや否や頭を下げるが、顔を上げてからその瞳が大きく見開かれた。すぐに慌てて酒呑童子が手に持っていた自分の日記帳を取ると、胸に抱きしめた。耳まで赤い。
これは面白い。
あまり見ない顔に酒呑童子は鼻に抜ける笑みを漏らした。
「あの、これは、僕が勝手に、えっと、同じ紙の妖怪ですし、調べるのは大事かなって思いまして!」
「ほう、勉強熱心よの。では和歌は?」
「和歌は、その、やっぱり教養といいますか、大切ですし。」
「夜叉丸は熱心でよいな。…飯を貰うぞ。」
深く聞かないようにしてやろう。意地悪心と良心の狭間にいながら、酒呑童子は面白くて仕方がない。
主様は絶対に気付いている。夜叉丸はそう思ったけれど、あえて聞かない酒呑童子の優しさに甘えてしまっても良いのかと考えた。
主様はもう涼しい顔で少しだけ冷めてしまった昼餉を召し上がっている。
何もおっしゃらないなら、良いかな。
ただ、酒呑童子が色恋についてどう思っているのかがわからなかったのでそれが心配だった。酒呑童子が鬼になった理由が、女子から恋文を貰いすぎたが故というのは勿論知っている。だから、少しだけ不安だったのだ。
幸い、主人は怒っている様子もないので、ほっと胸をなでおろした。気を引き締めよう、と心に決めたのであった。
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