弥勒忌憚
「お前だけは俺の味方だと思ってたのに。」
その言葉でやっと、彼は正気に戻った。目の前には、長年想いを秘めてきた、思慕する相手がぐちゃぐちゃに泣きながら臥せっている。女性のように長く伸ばした髪が乱れるのにも構わずに弥勒は枕に顔をおし当てていた。声を漏らさないようにしている。弥勒は、プライドが高い。そんなのは、昔からずっと知っていることだった。
そっとその黒髪に触れようと手を伸ばすと、気配を察知したのか顔を上げた。涙の溜まった大きな瞳が見開かれている。脱がされたシャツを握った弥勒の手は、雪のように白い。
泣いた顔ですら愛おしいといつもは思うのに、今日ばかりはこの状況に戸惑う。時間は何時だろう。弥勒と二人で部屋に戻ってきて、それでどうしたんだっけ。穴が開いたように、ぽっかりとその部分の記憶が抜け落ちていた。
暗く湿ったこの寮の二人部屋で、いつもなら弥勒の嫌がる、布団の上に軍服のまま上がるという行為をしてしまっている。相手も自分も服は乱れたままだった。ただでさえ白い弥勒の肌が、暗さと相まってますます白く見える。
下唇を噛んだまま、此方の様子から目を離さない。弥勒の身体はすっかり冷え切っているんじゃないだろうか。妙な親切心が働く。
足元には、脱ぎ散らかした自分の軍服が転がっている。いつもならあんなに皴になるのを気にして吊るすのに、今はそんなことに構っていられない。布団の上のぐちゃぐちゃのシーツは自分たちが交わったことを指し示していた。
とんでもないことをしでかしてしまった、と思った時にはいつも手遅れだ。そんなことばかり繰り返している。小さい時から何ら変わりのないことをしてしまう。
嗚咽交じりに吐いた弥勒の言葉が胸に刺さった。
次に、彼に何と言葉をかけたらいいのか、考えた。短い時間の中、高速で頭を回転させて考えても、弥勒に拒絶される言葉しか思いつかない。途轍もない恐怖に襲われた。どんなに厳しい訓練官より、死ぬことよりももっと恐ろしい大きな塊が襲ってくるような感覚に陥る。自然と拳を握り締めていた。掌に爪が食い込んでいるのにも構わず、強く握りしめていた。血が滲む。しかしそれが自分にとって戒めでもあると思った。
弥勒。大和惣次郎にとっては、この幼馴染が世界のすべてだった。
「弥勒、俺」
「近寄んじゃねーよ!裏切者!」
泣き顔を見られたくないのか、顔を隠したまま弥勒が叫ぶ。
その言葉に思わず惣次郎は目を伏せた。自業自得だというのに。頭の中はぐるぐると先ほどまでのことを思い出そうと頑張っている。弥勒の顔をろくに見ることが出来ず、彼の白い足を見つめた。傷一つない足を見てぼんやりと綺麗だな、と他人事のように呑気なことを思った。
重い沈黙が時間を止めているように感じた。ふいに、弥勒が膝を抱えてその膝に顔をうずめた。衣擦れの音が生々しく響く。声を殺して弥勒は肩を震わせた。泣かせたのは自分だ、その涙をぬぐう資格が自分にはあるのか。でも何かをしてやらなければいけないと思う。惣次郎は葛藤した。
結局振り払われることを恐れつつも、しかし手を伸ばさなければきっと後悔をする、そう思って彼の露わになった肩を抱き寄せる。
びくり、と敏感に反応をしたが、抵抗はされなかった。
それに何処か安心すると、彼を抱きしめる腕に力を込めた。案の定、弥勒の肩は冷たくなっていた。細い。震える肩を愛おしいと思った。
同情されたり、優しくされたりすることを嫌う弥勒が、抵抗しない。意外だった。そこまで、自分は彼に酷いことをしてしまったのだろうか。ますます自責の念に駆られた。
惣次郎の腕の中に納まっているが、しがみついたり、喚いたり、自分の弱さを見せるようなことはしない。弥勒らしい。強くて弱い彼が、愛おしい。
陽が落ちた冷たいコンクリートの部屋の中は、随分と冷えて灰色になっていた。
大和惣次郎と、呉弥勒は幼馴染である。無口で人付き合いの苦手な惣次郎と対照的に弥勒はよく喋り、仲間の中でも中心にいるような人物だった。小さい時からそれは変わらない。年は、弥勒のほうが一つ上だった。
弥勒の両親が存命だったころから、二人はよく遊んでいた。弥勒は昔から気性が荒くて何をしでかすかわからなかったので、惣次郎はよく心配になっていた。兎を食おうとしている野犬を殴って噛まれることもあったし、女のようだと揶揄われれば同級生と殴り合いの喧嘩をすることもあった。その度、弥勒を諫めたり、止めたりしていたのは惣次郎だった。いくら気性が荒くても、自分より一回り体の大きい惣次郎に弥勒が敵うはずもなかった。
弥勒にとってはそれが屈辱だったようで、その代わりに殴られたりもしたが、惣次郎は嫌な顔一つしなかった。周りからは、「どちらが年上かわからないね」なんてことをよく言われていた。
思い出せば、凄惨なあの事件があってから、弥勒はますます意固地になったように思う。強くあろうと、そう自分に言い聞かせているように見えた。
周りはそれで弥勒の強さを評価している。でも、惣次郎には、弥勒が強くあろうとすればするほど、痛々しく傷ついているようにも見えた。
無意識のうちにこの幼馴染は自分の手で守ってやらねばならないと、そう思っていたのかもしれない。家を飛び出して陰陽寮に入った弥勒を追いかけるのに、迷いはなかった。忘れもしない、夏の日だった。
もう8年か。二人で陰陽寮の中で過ごした年数は。
8年の中で、惣次郎の中にも抑えきれない気持ちが込みあがっていたのかもしれない。
一目惚れだった。幼少の頃に弥勒に出会った時のことは、鮮明に覚えている。
初め、惣次郎は弥勒を女だと思っていた。髪も長く小柄で綺麗な顔をしていたから仕方がない。それがコンプレックスになっている弥勒にそんなこと、口が裂けても言えないが。一緒に過ごしていくにつれ、弥勒の真っすぐな生き方に惹かれた。傍にいたいと思うようになった。弱いところも強いところも、愛おしい。
途中、ただの友人としての尊敬だと思った時もあった。憧れ、の領域からはみ出さないものだと自分に言い聞かせることもあった。
でも、二人で過ごして、どんな時も隣にいて、傷ついて、楽しそうに笑う彼を見ていたら友人に対する思慕ではないと、自覚した。
惣次郎自身、恋愛なんてものに縁はなかったし、これからもあるはずがないと思っていた。一生陰陽師として陰陽寮で暮らすものだと勝手に決めつけていたからだ。弥勒においても、自分と同じだと決めつけていた。
でも、弥勒の方はあっさりと恋人も作るし、一夜限りの仲だって平気で楽しむ様な生活をしている。焦っていたのだろう。弥勒を誰かに取られてしまうのではないかと。よく思い返してみればそればかりを気にしていた。
惣次郎も、もてないわけではない。むしろ、女は放っておかないような見た目をしている。道に立たせておけばあっという間に惣次郎を一目見たい女が集まってくる。おまけに、身長も高い。少し異国の血が混じっているからか、はかなく気高い雰囲気も纏っている。これで、女が言い寄らないわけがない。それだけではなく、温和で人当りもいい。ただ、少し無口で人との会話を遮断する癖があるけれど、それを踏まえても女が満足するような男に変わりはなかった。外身も中身もよいのである。
それに比べ弥勒は、外見こそ美しく気高い椿のような男ではあるが、見栄っ張り、強情、自尊心の過大、素行の悪さなど内面の良くないところを上げていけばきりがなかった。それでも女たちは弥勒を放っておかず、毎晩遊べるだけの人数が一定存在する。表向きの性格は悪くても根っこから悪人というわけではないのだ。少し短所があったほうが、女の方も母性本能をくすぐられるのだろう。
そういう色遊びの場に惣次郎がいけばそっちに女をとられてしまうと初期の頃に悟った弥勒は、すっかり惣次郎には何も言わずに女郎遊びに出かけることを覚えた。惣次郎は、それがもどかしくて、少し腹立たしかったのかもしれない。
弥勒。惣次郎は、そういう場所に連れられたとしても、さっさと座敷に入ってしまう弥勒のことばかり考えていた。あてがわれた女郎と行為はせずに、悶々と同じ建物内で女とまぐわっているであろう弥勒のことを考えた。女郎に泣かれることもあったけれど、惣次郎にとって弥勒以外が何を言おうと関係はなかったのである。
こんなことなら、女に生まれたほうがよかった。どうしようもないようなことを考えることも少なくなかった。友人として、隣にいるだけでは満足しない、もっと欲しいと望んでしまったのだ。抱いてはいけない思いだと自分にいくら言い聞かせても、別人のように心がいうことを聞かない。思いばかりが募る。自分のものにしてしまいたかった。
そして、偲んできた思いが、弾けてしまった。
月明かりが差し込んでいる。ぴったりと閉じられた窓と重い扉で塞がれたこの部屋の中に沈黙が流れている。腕の中にいる弥勒に、何を言ったらいいのだろうか。
「弥勒、ごめん」
「うるせえ」
ぴしゃりと言われてしまえば、口を閉じるしかない。代わりに、抱きしめる腕の力を込めた。自分の腕の中にすっぽりと納まってしまうのか。予想以上に華奢な体を大切に、でもぎこちなく覆う。強張っていた弥勒の身体は少しだけ力が抜けていた。緩みを見せた弥勒の心の隙間を縫うようにして、じわりと体温を共有した。
「ずっと、好きだった」
吐息と共に、抑えきれなくなった箱の中から言葉が零れてしまった。こんなことを言ってしまえば、もう隠すことはできない。頭ではわかっているのに、心がいうことを聞かなかった。ぽろぽろと雫のように言葉が落ちて弥勒にぶつかる。
「初めて会った時から、ずっと好きだった。」
「ここに来たのも、弥勒と一緒にいるためなんだ。」
「俺には、弥勒しかいないんだ。」
利己的だと、判っている。弥勒の気持なんかお構いなしに、自分の思いばかりぶつけてしまっている。弥勒は何も言わない。言葉を切ると、また沈黙が押し寄せてくる。下唇を噛む。
弥勒の顔が見たくなった。細い肩に手をかけて自分から離すと、弥勒は慌てて顔を手で隠した。不思議に思って、その手を外そうと試みる。
抵抗しているようだったけれど、細い弥勒の腕はあっさりとどかすことができた。反動で、弥勒の身体が傾く。布団の上に弥勒を押し倒すような形になってしまった。口の中は、からからに乾いていた。息が詰まる。
泣きそうな顔をした弥勒は、耳まで赤い。惣次郎は、熱が込み上げてくるのを感じた。これはいけない。理性は細い糸で繋がっているけれど、切れるのも時間の問題だった。
「やめろよ、惣次郎」
いつもの威勢は無い。泣きそうな顔で、惣次郎に助けを求めるように細い声だ。白い首と、黒い髪で目がちかちかする。心臓の音が大きく聞こえる。弥勒が足を動かすから、衣擦れの音が厭らしく耳の奥に響く。突然、時計の針の音が耳についた。今まで鳴っていなかったのだろうか。頭の奥の方でそんなことがよぎった。
弥勒の頬を覆う様に撫でる。びくりと肩を震わせて反応する。髪が顔にかかって表情がよく見えなくなってしまった。大切に、壊れてしまわないようにそっと髪を払うと、こちらを見ようとしない弥勒の表情がうかがえた。涙など見せるものかと歯を食いしばっている。プライドが許さないのだろう。弥勒の特性は、全部わかっている。いつも、必ず反発する。
抵抗される方が、ひとは燃え上がる。
いけない、と自分を止めようとした。こんなことをしてはいけない。同じことを二度もしてしまってはいけない。しかし、上がってきた熱は脳髄を麻痺させた。
意固地で、プライドが高くて、素直じゃない。そんな弥勒が、自分の言葉で頬を染めている。自分の一挙一動で、敏感に反応する。愛おしくて堪らない。
「やだ、惣次郎、やめて、やめろ」
弥勒が自分の手の中でどんなにもがいても、体躯の差には勝てない。両腕をシーツに縫い付けるように押し付けてしまえば身動きなんか取れない。必死にもがく脚も絡めて動けなくしてしまえばいい。
上気した肌が艶めかしく目に映る。下げた眉が、愛らしい。黒髪が生き物のように曲線を描いて白い肌に落ちている。弥勒がいつも使っている石鹸の香りが立ち上った。理性など、飛んで行ってしまった。
ふいに弥勒が、怯えた顔をした。一体、自分はどんな顔をしているんだろう。
「惣次郎」
弥勒はきっと、抵抗と非難の意味で名を呼んだのだろう。でも、理性の糸が切れた惣次郎には、欲情させる要素でしかなかった。
めちゃくちゃにしてしまおう。もう後戻りすることはできない。たった一度のことで信頼なんて物はあっさりと崩れ去ってしまう。苦しい。どうしたらいいのかわからない。でも、抑えることはできない。
弥勒の白い首に噛みつきながら、得も言われぬ背徳感に襲われる。兄弟のように育ってきた。いつも高飛車で取っ付きにくい弥勒は自分の下で喘いでいる。征服しているような感覚もあった。誰よりも自分がそばにいたい。このまま、自分だけのものにしてしまいたい、とそう秘かに願うのだった。
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