【シキケン】Box
「巽、あんたこれ片付けときなさいよ」
そう言って夜、安アパートから出て行った母はピンヒールを履いていた。
ピンヒールを履いて出かけるときは決まって朝、男と一緒に帰ってくる。
一度たりとも母親らしい顔を見せたことはなかったが、完全に女の顔をする母を見たいわけがなく、向こうも邪魔だなという顔を露骨にしてくるのでそういう時は自分もどこかへ出かけた。
ニューヨークの中でも特に治安が悪く、家賃も安い地域に住んでいると感覚が麻痺してくる。酔っ払い、ドラッグの売人、差別は当たり前で、そんな中で母はたくましく女一人で生きていると思う。今日もまた、アパートの外から罵声が聞こえてきた。誰かが争っているのだろう。
母が連れ込んだ男が「息子か?」と聞いたことがあった。その時母は「違う、姉の子供」と答えた。それからというもの、自分が傷つかないためにも、母を傷つけないためにも出来るだけ合わないように生活リズムをずらした。
リビングにはダブルベッドが置いてあるが、巽はそこで眠ったことはない。
大抵、破れたソファか毛布を敷いた床で眠っていた。ヒョウ柄のベッドシーツの上ではよく眠れる気もしなかったし、母が嫌がると思ったからだ。
使われていないキッチンに乱雑に置かれた灰皿を取り、中身をゴミ箱に捨てる。灰が舞い上がって僅かに眉をひそめ、窓を開けた。
安アパートといえど、眺めだけは良い。キラキラと輝くような夜景が窓の外には広がっている。地上に降りれば途端に汚くなる街だが、上から見る分には夜空のようだった。
ポケットから煙草を取り出して火をつける。夜風が優しく煙を流していく。
まだ巽は煙草が吸える年では無い。しかし、誰も止める者はいないし、気を紛らわす術としては手っ取り早かった。
銀色に染めた髪をかき上げてベランダへ身を躍らせた。
ニューヨークの雑踏とした音と匂いが強くなる。
家の中は自分の居場所じゃない気がする。居てはいけない場所のような気になって、安らげないのだ。
薄い壁の向こうから、隣人夫婦の怒鳴りあう声が聞こえる。
沈黙よりはましかもしれないが、それでも煩わしくなって部屋を出た。
空き缶や新聞紙が落ちているのなんか当たり前で、この時間になったら歩道には人間も落ちている。酔っ払い、ホームレス、ストリートチルドレン…各々寝床にしようと丁度良い場所に腰を据えて、濁った瞳で道行く人々を見つめている。いや、もしかしたら瞳に映っているだけで、見てはいないのかもしれない。あるいは、何かを盗もうと隙のありそうな人物を選定しているのかもしれない。
彼らからの視線をちくちく感じながらよどんだ空気の中を歩いていく。
派手なネオンが目に刺さり、地響きのような音漏れがひどい店の前に立つと、軽くドアを開けて中を覗いた。
隙間から割れたようなアップテンポの曲がこぼれて空気を震わせた。薄暗い中に煙とスポットライトと、目が痛くなるほどきらびやかな服の人々が溢れかえっている。入るのが些か躊躇われて、ドアを閉めた。
再び低音だけが漏れ、籠ったような音を響かせている。
店の前の花壇に腰かけて煙草を吸っていると、ハイヒールの音が近づいてきた。
カツカツカツ、とアスファルトをえぐるかのような雑な歩き方だな、とぼんやり巽は思った。
真っ赤なハイヒールが目の前で止まる。白く細い足が伸びている。
「ハァイ、坊や。」
声をかけられて視線を上げると、真っ赤なドレスに身を包んだ派手な顔がこちらに笑いかけていた。ブロンドの髪を肩に流し、自信に満ちた顔をしている。
「ハーイ。」
軽く片手をあげて挨拶を返す。
「あなたいくつ?」
「こういうところにいるやつに、年齢聞くなんて野暮だね。ガキだと思ってもみないふりするのが良いと思うけど」
「あら、ずいぶん生意気な口きくのね。ビビッてお店に入れないくせに」
「人が多かったからやめただけ。一本吸ったら帰るよ」
女の言葉が頭にきたが、少し背伸びをして大人ぶった答えを返した。
「あらそう。じゃあ今度見に来てね。あたし、ここの看板ストリッパーだから。バーイ」
一方的にそうまくしたてると、彼女は再びハイヒールを鳴らして店の石段を上っていく。ドアが開くと同時に再び音が漏れ、すぐさま収まった。
なんだよあの女、とわずかに心の中で悪態をつく。煙草もずいぶん短くなってしまったので靴裏で火を消してから花壇に放り込んだ。
結局テイクアウトのハンバーガーを買ってそのまま家に帰ってきてしまった。閉店間際に滑り込んだせいではち切れんばかりの腹の店主には嫌そうな顔をされたが知った事ではない。
アヴィのところにでもいけばこの寂しさは紛れたかもしれないが、頼りきりになるのはなんだかプライドが許さない気がした。変な大人びた気持ちになったせいで、1時間ほど前に飛び出した安アパートに戻ってきてしまった。
母が戻ってきているはずもなく、相変わらず隣の部屋の夫婦の声だけが響いてくる。破れたソファに腰を下ろすと、軽く埃が舞った。吸い込まないように目を細めて息を止め、窓を再び開ける。湿った空気が流れ込み、頬を撫でていく。
派手なファッション雑誌やマニキュアが乱雑に置かれているがお構い無しに机に買ってきたバーガーの袋を放った。
ソファの端にあったリモコンを手繰り寄せてテレビのスイッチを入れる。
別に見たくもないドラマをぼんやり眺めながらハンバーガーの包みをペリペリとめくった。
ハンバーガーの包み紙をクシャクシャと丸め込んだ時、アパートの廊下の方からヒールの音がした。と、同時にドアノブがガチャガチャと鳴る。
「巽ー!いるんでしょ、開けなさい〜!」
いつになく上機嫌な声が聞こえる。
こんな時間に帰ってくることなんて滅多にないのに、何かいいことがあったのだろうか。
チェーンを外してドアを開ける。
「ただいま〜」
この日本語は、家に帰ってきたときの挨拶なのだということが最近になってわかった。
予想通り、機嫌の良い顔をした母は片手に紙袋をいくつか持っている。ピンヒールを手を使わずに器用に脱ぎ捨てると巽を押し除けて部屋へ雪崩れ込んだ。
随分酒臭い。どのくらい飲んできたのだろうか。
心配とも呆れとも言える感情になるが表情には一切出さず、「どうしたの、早いね」と英語で問いかける。
しかし、母はそれには答えず手に持った紙袋を無言で押し付けてきた。
「フォーユー」
辿々しいにも程がある、と笑いそうになったが、その笑いは照れ隠しにもならないと思えば奥歯で噛み殺した。
驚きと喜びが半分半分の感情が沸き起こるがその感情の処理の仕方を知らない巽はそのまま無表情で礼を言った。
照れたような顔を隠すように母は浴室の方へ消えていった。
母から何かをもらった思い出はない。昔誕生日に蝋燭をもらったことがあるが、あれは気まぐれに投げてきたものだしカウントには入らない。
そう思えば、これは歴とした贈り物で、初めて母にもらった「プレゼント」ということになるだろう。
よくわからない喜びを押さえつけながら紙袋から箱を取り出した。
鼻腔をくすぐる甘い香りに、中身が食べ物だということがわかった。
母の化粧道具を脇に退かし、白い紙箱をゆっくり、丁寧に机の上に置く。
白い箱には赤いリボンがかかっている。十字を描いた上にリボンの形がちょこんと乗っているのが可愛らしい。
テーブルの上にたまたまあったハサミでリボンを切る。切れ端がはらりと解けて久しぶりに顔を出したガラス天板に落ちる。
恐る恐る開けた箱の中には、黄金色をした丸いケーキが収まっていた。
ケーキだということはわかったが、何のケーキかはわからなかった。
食べていいのか、と一度躊躇ったが、あげると言って渡されたのだから良いだろうと判断すると、脇に付属していた小さなプラスチックのフォークで掬った。
柔らかい口溶けに、優しい甘みが舌の上に広がる。わずかにレモンのような香りがする。
嗚呼、チーズケーキか。
食べたことのないケーキのせいか分からないが、じわりと目の奥が熱くなった。緻密な生地を噛み締めながら、大切に口へ運んでいく。
母の浴びるシャワーの音だけが静かに響いた。
0コメント