【シキケン】それから。

3/29 AM1:32

「吉川線が出ないように」

自分よりずいぶん手慣れた様子でそう言った時任の言葉を今になって思い出す。

吉川線、とは絞殺時に首に生まれる引っ掻き傷である。

それを生まないためにはあらかじめ相手の手にタオルを巻いておく必要がある。

いつの間にか身につけてしまった無駄とも言える知識を無意識に反芻してしまって苦笑いをした。

手に残る紐の感覚が消えず、誤魔化すように握りしめた拳は白くなっている。

家業を始めてから日は浅い。

学生時代から徐々に手伝いを始めていたが、いざ本腰の入った仕事をするのは今日が初めてだった。

泣き叫びながら命を乞う男の顔が思い出される。名前も薄らぼんやりしているというのに、最期の言葉ばかり頭の奥に残った。

「お願いです、なんでもします、命だけは」

映画や漫画の世界にしか存在しないような言葉。

人間の心からの懇願とはこういうことを言うのか。

妙に達観した頭でそんなことを思いながら彼の顔を見ていた気がする。

それから、手にタオルを巻いて、首を細い紐で締める。琴切れたのを確認して、ドアノブに遺体ごと括り付ける。腰の下には座布団を敷いて、それを引き抜く。手のタオルを外す。

これでもう、彼の死は自殺に見せかけられると言うわけだ。

銃殺や刺殺の様子はアメリカにいる時に時々目撃した。その時は自分が幼かったせいもあり、「映画みたいだなあ」と漠然とした感想を抱いていた。

しかしいざ自分の手にかけるとなると、生々しく一つの命を奪った事を実感する。

それと同時に、命というものは案外脆くて弱いものなのだと改めて感じるのである。

自ら選んだ道とはいえ、ふと自分が人とそうではない向こう側の境目に立っている気がする。

そんな自責の念を抱き始めたが最後、手にかけて霊となった人々が呪いをかけてくる。

---誰に合わせる顔もないな。

そう思いながら、同じ穴の狢が蠢く本家を後にして家へ帰るのだ。

自分が人間でいられる場所。

その唯一が、学生時代から仲の良い彼と住む家なのだった。

学生が住むにしてはなかなか贅沢なオートロックの玄関を開いて納戸色の室内へ身を滑らせる。

誰かの親であった人間を手にかけたのだ。自分の手の中で一つの命が終わるその瞬間を体感して、心は疲弊しきっていた。

遺書を捏造するために漁った彼の箪笥の中にあった家族写真を見てしまったのも良くなかったかもしれない。

酷くやつれた男の顔と、写真の中の笑顔の男を無意識に重ね合わせ、1人で苦しくなってしまう。

兄には「感情など早く捨てろ」と言われている。はじめはその意味がわからなかったが、今日初めてそれがわかった。

こんな気持ちになるならよっぽど感情など捨てた方が良い。

兄なりの優しさなのかもしれない、と思った。きっと、そんなことはないのだけれど。

リビングに置かれた黒い革張りのソファに身を沈める。

ルカはきっと眠っているだろう。

学問を本業とした彼の生活を侵すつもりはない。だから静かにひとり、ぼんやりと今日のことを思い出していた。

「おかえり」

眠そうな声と共にリビングの電気がつけられ、闇に慣れた視界は一瞬、真っ白になった。

「うん」

ただいま、というのが正解なのだろうけど。

精一杯答えられたのはそれだけだった。

リビングの入り口に立った彼はもうすでに寝巻きに着替えており、いかにも今さっきまで眠っていましたという顔をしている。

「あーごめん、起こした?」

「別に、起きてた」

そういうところがあるのだ。

自分に気を遣わせないための建前だと分かっているのだが、それに甘えてしまう。

「明日学校でしょ〜寝なよ〜」

笑ってはぐらかす。

このひとには、自分が人を殺してきたと察されたくない。

きっと彼はなんでも話して欲しいのだと思うけれど。

だから、わざと何でもない顔をして彼に笑いかけた。

形のいい眉が潜められる。

どきりとした。

「....仕事、大変だったの」

彼は本当に察しがいい。どうしてこんなにも彼に胸中がばれてしまうのだろう。

そこまでお見通しなら隠す必要はない、と思い静かに頷いた。

ゆっくりとした動作で彼が隣に座る。

「.....はじめて、人を殺した」

彼の前では意地など意味がない。

ぽつりと呟いた吐露にも変わらぬ笑みを浮かべて彼は頷いた。

口に出してようやく、自分が思っているよりも傷ついていることに気がついた。

いつの間にか頬に生ぬるい感覚が伝う。

「やっぱさぁ、きついよね。目の当たりにすると」

今まで堰き止めていた感情が緩やかに流れ出す。

それと同時に、瞳から涙が溢れてくる。

「がんばってるねぇ、巽くんは」

誰かに褒められたい訳じゃない。でも、彼のその言葉に張り詰めていた緊張の糸が緩んだ。

紡ぐ言葉が見つからない。

零れ落ちる涙を止める方法もない。

ぽたりと落ちた涙がスーツのズボンに染みをつくった。

「今日だけは許して」

ルカに言ったのか、それとも仕事仲間に言ったのか、そこに身を鎮めることにした自分に言ったのか。

定かではない。

ただぽろりと溢れた言葉はいつの間にか誰かに対する懺悔になってしまった。

仕事なのだから、きっと兄はそう言って冷ややかな目で見てくるのだろう。

しかし、巽はまだまだその世界においては未熟だった。

そっと近くに腰を浮かせて座った、自分より少し薄い彼の肩に頭を預ける。

後ろ髪を、彼が撫でた。

彼がつけている大人っぽい香水の香りではなく、シャンプーの香りがする。

彼の肩に顔を埋めて肩を震わすと、彼は背中にそっと腕を回した。

「俺は許してるよ、ずっと、許してる」

いつもよりずっと優しい声で彼が言った。

嗚呼、このひとに許して貰えるなら。

明日は泣かないから、なんて言い訳をする必要もない。

視界の端に捉えた彼の星のピアスがきらりと光った。

綺麗だなぁ、と、そう思った。



3/30 AM3:00

遠くから足音が聞こえる。仕事終わりに部屋へ戻っていく若中のものだろう。

深夜3時。

本家と言われる日本家屋の中はそんな時間でも慌ただしい。

ドタドタと走り、「さっさと取り立て行けや!」なんて言う怒号まで聞こえてくる。

草木も眠る丑三つ時なんて言葉はここには無い。

闇の住人たちは夜に動くのだ。

そんな本家の一部屋に、巽は居た。

一仕事終えて若頭への報告を済ませたが、家ーーー彼とはじめたルームシェアのーーーへは帰る気にならなかった。

昨日手にかけた子供がいるのだと命乞いをしてきた男の顔と、今日奪った命の事を反芻して吐きそうになる。

こんな顔じゃ帰れない。

昨夜も彼にはそういう姿を見せてしまっている。あまりにも続くようで有れば、優しい彼はきっと自分のことばかり考えてしまうだろう。

彼に心配をかけたくなかった。

感情を上手くコントロールして、彼の前では笑っていたい。男の小さなプライドとも言えるその気持ちのせいで、今日は暗い和室の中でため息を吐いている。

一つの家族を壊す事は容易い。

借金を作って、半グレのような事をして、神谷組のシマを荒らしたーーー。

その理由で、1人の男を殺した。

その妻は劣悪な環境の風俗店へ売り飛ばした。借金の端金にもならないような値段で。

そしてその息子は、海外へ売った。12歳くらいの少年は訳のわからないまま、遠出ができると喜びながら大型バンの中へ消えていった。彼がどうなったのか、知る由もない。

それぞれの顔が暗い和室の中に浮かび上がる。

顔の形が変わる程殴られ、絶望の表情を残したまま息を引き取った男。

目の前で旦那が殺され、お前も死ぬか、という問いに首を振って泣きながら縋ってきた女。

自分が今後どうなるか理解せず、無邪気に笑っていた少年。

ふぅ、と深く息を吐き出した。

胸ポケットを探り煙草を取り出す。灯った赤が暗い部屋で唯一見える色だった。

遺体をコンクリートに詰めるのは素人のやる事だ、と時任は言った。死体から出た腐敗ガスがコンクリートを割って、海面浮上しやすくなる。だから、アスファルトと砂利、コールタールに混ぜて3000度の熱処理をした方がよっぽど足がつかない。それを業者と懇意になって道路舗装にしてしまう。

真っ黒なドロドロとした液体の中へ落ちていった男の遺体を思い出す。

ふぅ。

細く吐き出した煙が暗い部屋の中をゆったり漂っていく。

「巽」

静かな声がした。

音もなく襖が開き、わずかな衣擦れの音と共に白い顔が浮かび上がる。

軽く振り返ってその姿を捉えると机の上にあった灰皿を手繰り寄せて煙草の火をじゅ、と消した。

「どうしたんですか姉さん」

彼女に向き直る。大丈夫、と自分に言い聞かせて緩やかに口角を上げた。

文緒の黒曜石の瞳がわずかに下げられ、その視線を追うと自分の拳に向けられているようだった。

久しぶりに人を殴ったせいで手の甲がわずかに裂傷している。

「大丈夫ですよこのくらい」

立ったままの彼女を見上げ、わざと見せびらかすようにして笑ってみせる。

ほとんど表情の変わらない蝋人形のような女は少しだけ瞳を伏せた。

直視したら見透かされそうで、彼女の視線から逃げるように背を向けてしまった。

「巽」

もう一度彼女が名前を呼んだ。

上手く笑えてなかったかもしれない。

そう思わざるを得ないほど、慈悲のこもった声で彼女は呼んだ。

沈黙が徐々に部屋を満たしていく。

握った手のひらに爪が食い込んでいる。

遠くから話し声が聞こえてくる以外、何も聞こえない。

文緒は、自分に向けられた背中をじっと見つめた。

「...子供がいる人でした」

小さく言って、唇を噛んだ。

そういう人たちを守りたいと豪語するほど安っぽい正義感も持ち合わせていないが、死んで当然だと割り切れるほどこの業界に慣れてもいない。

ましてや、そんな日々が続くとなれば堪える。

鼻に奥がツンとなるのを押さえつけて小さくため息を吐く。

ふわり、と着物といぐさの香りが混じり合い、文緒が目の前に膝をついた。

頬にひやりとした感覚。

彼女の冷たい手がそっと頬を撫でた。思考がゆっくりと冷えていく。

受け入れて慣れていかなければならない事なのはわかっている。ただ、今は、少しだけ気持ちの整理がつかないのだ。

「忘れなさい、そこにいるのは貴方じゃない」

落ち着いた声で彼女が囁いた。

自分ではない何か。

それは一体なんだ?

感情など早く捨てろ、という兄の言葉が蘇ってくる。

「...はい」

小さく頷いて、彼女がくれた言葉を咀嚼する。

兄もこんな風に頭を悩ませたことがあったのだろうか。彼の事はわからない。

自分と比べるような人じゃないとわかってはいるものの、兄はどうだったのか少しだけ気になった。

口が裂けても問う事は出来ないが。

そこにいるのは俺じゃない。

神谷組の人間であって、神谷巽ではない。

そう思うことが最も最適解なのかもしれない。

「ありがとうございます」

わずかに自分の心の向きが定まったような気がした。

ゆっくり彼女が瞬きをした。

畳と足袋が擦れる音がして、気配が遠のいていく。

ぱたり。

襖が閉まる音がした。

薔薇と脳髄の向こう

感嘆と共感と畏怖。共に彼岸へ向かおう。